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SFスキャナー・ダークリー

英米のSFや怪奇幻想文学の紹介。

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2013.07.19 Fri » 『L・スプレイグ・ディ・キャンプ傑作集』

 編纂したアンソロジー『時を生きる種族――ファンタスティック時間SF傑作選』(創元SF文庫)には、L・スプレイグ・ディ・キャンプの中篇「恐竜狩り」を収録した。むかしから好きだった小説なので、新訳できてとても嬉しい。

 新訳とわざわざ強調したのは、一字ちがいの旧訳「恐龍狩り」(船戸牧子訳)とは別のヴァージョンに基づいて翻訳したからだ。
 手元にあった原文と船戸訳をくらべたら、原文のほうは随所に手がはいっているとわかった。改訂は主に刈りこむ方向でなされており、新ヴァージョンのほうが出来がいい。
 というわけで、船戸訳に愛着はあったのだが、あえて新訳に踏みきったしだい。

 その別ヴァージョンを収録していたのが、The Best of L. Sparague de Camp (1978) である。初版はSFブック・クラブのハードカヴァーだが、当方が持っているのは、例によって同年にバランタイン/デル・レイから出たペーパーバック版である。

2013-7-16 (de Camp)

 ポール・アンダースンの序文につづき、小説14篇、エッセイ1篇、詩3篇が収録されており、最後にディ・キャンプ本人の「あとがき」がつく。
 このうち邦訳があるのは「命令」と「恐竜狩り」の2篇だけ。わが国におけるディ・キャンプの不人気ぶりを如実に表わしている。この人も彼我の評価の差がはなはだしい。
 
 原因のひとつは、1940年代のSF黄金時代を支えたスターのひとりという側面が、知識としては頭にはいっても、実感できないからだろう。ディ・キャンプのSF界デビューは1937年であり、〈アスタウンディング〉誌編集長ジョンW・キャンベル門下生としては、ロバート・A・ハインライン、A・E・ヴァン・ヴォート、アイザック・アシモフなどの先輩にあたる。
 しかも、SFを書きはじめる前からプロの作家として活動していたので、当時のSF雑誌の常連にくらべれば文章が抜群にうまく、さらに工学や歴史に関して造詣が深かったので、キャンベルの高い水準をクリアする力があった。そのためディ・キャンプは、「キャンベル厩舎のホープ」として期待され、その期待に応えたのだった。

 その好例が、本書にも収録されているエッセイ“Language for Time Travelers” (1938) だ。英語がいかに変化してきたかを概括し、未来にどう変化するかを予測して、時間旅行者が言語の障壁でどれほど苦労するかをユーモアに論じたもの。この種の考察は史上初だったらしく、ディ・キャンプの名を高らしめた。

 こうしたデビュー当初の活躍が、SF作家ディ・キャンプの評価を確立した。その証拠に本書の収録作のうち、小説7篇とエッセイは1938年から40年にかけて〈アスタウンディング〉か〈アンノウン〉に発表されている。つまり、この時期のディ・キャンプやハイラインたちの作品が、SFの新たなスタンダードを作りあげたわけだ。

 しかし、わが国では、そのスタンダードの上に築かれた1950年代SFのほうが先に紹介されたので、こうしたディ・キャンプの活躍は実感できないのだ。逆に洗練された作品のあとに読むと、泥臭く感じられるのである。

 前置きのつもりが長くなったので、収録作の話は割愛。
 ひとつだけ書いておけば、表紙絵は“The Emperor's Fan”という短篇を題材にしている。架空の中華帝国を舞台に、生き物を別世界に送る力を秘めた魔法の扇にまつわる東洋趣味ファンタシーだ。
 ダレル・K・スィートの絵は、あんまり中華風ではないので、キャンベル追悼アンソロジー Astounding (1973) 初出時にケリー・フリースが描いたイラストを紹介しておく。やっぱりフリースはいいなあ。

2013-7-16 (Emperor's)


蛇足
 L・スプレイグ・ディ・キャンプという名前は変わっているので、当初は著名作家のペンネームだと思われたらしい。ヘンリー・カットナーやL・ロン・ハバードの名前が取りざたされたそうだ。(2013年7月16日)

 
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2013.07.18 Thu » 『カップ一杯の宇宙』

 編纂したアンソロジー『時を生きる種族――ファンタスティック時間SF傑作選』(創元SF文庫)の見本がとどいた。今回も鈴木康士氏が雰囲気のある表紙絵を描いてくれて、うれしいかぎりだ。

 本書に収録したミルドレッド・クリンガーマンの作品は、A Cupful of Space (Ballantine, 1961) という短篇集から選んだ。著者は主に1950年代に活躍した作家だが、フルタイムではないため作品の数は極端にすくなく、これが唯一の著書である。ちなみに、表紙絵はかのリチャード・パワーズの筆になるもの。

2013-7-14 (Cupful)

 同書には1952年から1961年にかけて発表された作品が16篇収録されている。そのうち〈F&SF〉掲載が11篇、〈コリアーズ〉掲載が2篇、〈ウーマンズ・ホーム・コンパニオン〉掲載が1篇、書き下ろしが2篇である。
 ちなみに邦訳があるのは、「無任所大臣」、「鳥は数をかぞえない」、そして今回のアンソロジーに採った「緑のべルベットの外套を買った日」の3篇(追記参照)。

 デビュー作「無任所大臣」は、平凡な老女が異星人とコンタクトし、事情がわからないまま世界を救ってしまう話としてSF史に名をとどめている。これがハートウォーミングな小品なので、そういう作風なのかと思ったら、意外にも薄気味の悪い話、不穏な空気をかもしだす話が多かった。ホラーとまではいかず、むしろ〈奇妙な味〉に近い作風である。

 集中ベストは、前に紹介したことのある“A Red Heart and Blue Roses”か、SF版ロマンティック・コメディ「緑のベルべットの外套を買った日」だろうが、それにつづくのが“The Gay Deceiever”という短篇。こんな話だ――

 旅まわりの芸人で、笛を吹きながら、風船を売って歩く老人がいる。もちろん、子供に大人気で、行く先々で子供にとり巻かれる。本人も子供好きらしく、売り上げの見こめないスラム街へ足をのばし、風船を無料で配ることさえある。だが、老人があとにした街では、かならず事故にあった子供の死体が発見されるのだ。捨てられていた冷蔵庫に閉じこめられた形で……。

 老人にあこがれて職を辞し、助手をつとめている若い女性の視点で書かれているのがミソ(つまり、最初のうちは老人が善意のかたまりに思える)。ハーメルンの笛吹きの伝説を下敷きにしており、なんともいやな後味を残す一篇だ。

 このほか、天使のように可愛いのに、凶暴きわまりない幼女が出てくる“The Little Witch of Elm Street”も面白い。この子は三輪車に乗って人に忍びより、うしろから轢くのが大好きなのだ。(2013年7月14日)

【追記】
「緑のべルべットの外套を買った日」は、橋本輝幸と当方の共訳である。橋本氏は、海外SF紹介者としてすでにめざましい活躍をしているが、翻訳はこれがデビュー作となる。共訳者としては僭越だが、新鋭の門出を祝いたい。

2013.06.29 Sat » 『セイバーヘーゲン自選傑作集』

【前書き】
 本日はアメリカのSF作家フレッド・セイバーヘーゲンの命日である。故人を偲び、訃報に接した2007年7月5日に書いた記事を公開する。


 いまごろ知ったのだが、アメリカのSF作家フレッド・セイバーヘーゲンが、去る6月29日に亡くなっていた。享年77。
 デビューは1961年で、去年も長篇が出ていたから、45年も現役だったことになる。典型的な職人作家であり、オリジナリティは皆無に近いが、既存のパターンをうまくひねって、つねに水準以上の作品に仕上げていた。
 その美点や特質は、『バーサーカー/星のオルフェ』(ハヤカワ文庫SF)の解説に書いたことがある。そこにも記したように、当方の好きな作家のひとりだった。まずは合掌。長いあいだご苦労さまでした。

 追悼の意味をこめて、セイバーヘーゲンの本をいくつか紹介する。まずは自選短篇集 Saberhagen: My Best (Baen, 1987) から。表紙絵はトム・キッドの筆になるものだ。

2007-7-5 (Saberhagen)

 表題どおりの内容で、1961年から87年にかけて発表された17篇が収録されている。邦訳がある作品はつぎのとおり――

「バースデイ」、「スマッシャー」*、「和平使節」*、「グッドライフ」*、「鋼鉄の殺戮者」*、「機械の誤算」*、「マーサ」、「地球を覆う影」

 題名のあとに*を付したのは《バーサカー》シリーズに属す作品。セイバーヘーゲンといえばバーサカーというのは、衆目の一致するところであり、本人もそう自負していた証拠である。もっとも、《バーサカー》シリーズ以外の中短篇はほとんど訳されていないわけで、その点がちょっと残念。

 序文もコメントもない無愛想な本だが、セイバーヘーゲン入門にはうってつけの1冊だろう。

 未訳の作品のなかでは“The Long Way Home”というのがちょっとすごい。どうせ邦訳は出ないだろうからネタをばらすが、宇宙船のなかで綱を引っ張ることに一生を捧げている人々が出てくる。その力でエンジンの故障した宇宙船を動かしているのだ。もう何世代がこの作業に従事してきたことか。目的地はまだまだ遠い……。

 C・C・マキャップの「完璧な装備」(こちらは弓で矢を飛ばし、その反動で宇宙空間を航行する)とならぶ二大人力宇宙船ものとして当方は偏愛している。(2007年7月5日)


2013.05.24 Fri » 『われらがベスト』

【前書き】
 以下は2007年11月18日に書いた記事である。誤解なきように。


 山岸真氏の日記によると、恒例になっている「今年のSFベスト5」にそろそろ投票しようと思って、依頼状についてきた参考資料を見た。そうしたら、氏の編訳書の項目にこう記されていたという――

ひとりっ子 グレッグ・イーガン 山岸融(編訳)

 じつは、このミスには当方も気がついていた。ひとつ上の項目が拙訳書『時の眼』で、当方の名前が出ているので、リスト作成者がまちがえたのだろう。
 しかし、フロイトの説を持ちだすまでもなく、この手のいい間違い、書き間違いは、当人の無意識を露呈したものと思ったほうがいい。要するに、われわれふたりはセットで認識されているのだ。

 まあ、似たようなキャリアで似たような仕事をしているうえに、共編のアンソロジー・シリーズまで出しているのだから無理はない。当方としては光栄のいたりだが、はるかに立派な仕事をされている山岸氏にしたら迷惑だろう。申しわけないかぎりである。

 さて、氏の日記を読んだら、フレデリッック・ポールが同じようなことをいっていたのを思いだした。
 周知のとおり、ポールは盟友C・M・コーンブルースと共作することが多かった。当然、混同されることも多かったのだろう。ポールいわく――

「ある批評家に紹介されたとき、彼はこういった。『あなたのラストネームは〝アンドC・M・コーンブルース〟だとずっと思っていましたよ』」

 上の文章は、ふたりの共作短篇ばかりを集めた傑作集 Our Best (Baen, 1987) の序文から引いた。

2007-11-18(Our Best )

 収録作は12篇。なかには未発表だった『宇宙商人』の幻のエピローグもふくまれている。邦訳があるのは「模擬砲」、「火星地下道」、「ガリゴリの贈り物」、「ある決断」の4篇。

 ポールの序文やコメントが抜群に面白い。アシモフやエリスンもそうだが、この手の雑文を書かせると天下一品だ。それが小説家としていいことなのか、悪いことなのかはわからないが。
 たとえば、『宇宙商人』が出たあと、書評に自作、あるいはコーンブルースとの共作がとりあげられるたびに、「この新作は、『宇宙商人』の水準にはおよばないが……」と書かれ、25年後には「この新作は『ゲイトウエイ』の水準にはおよばないが……」と書かれる、とこぼすあたりは吹きだしてしまった。

 この本は15年以上前に買ったのだが、雑文だけ読んでしまいこんでいた。今回せっかく本棚の奥から引っぱりだしてきたので、未訳の短篇をいくつか読んでみた。
 そのうちでは“Mute, Inglorious Tam”というのが出色。14世紀のイングランドを舞台に、サクソン人農奴の貧しく厳しい生活が描かれる。タムという男は、生活の苦しさを忘れるため、自力で動く車が空を飛び、星まで行くことを夢見るのだった……。
 SF作家のご先祖さまの肖像というところか。苦いながら、暗い情感をたたえた1篇である。(2007年11月18日)

2013.05.11 Sat » 『割れた石への祈り』

 ついでだからダン・シモンズ「ケンタウルスの死」がはいっている作品集を紹介しておこう。シモンズの第一短篇集 Prayers to Broken Stones (Dark Harvest, 1990) がそれだが、当方が持っているのは例によって2年後に出たバンタム・スペクトラ版のペーパーバックだ。表紙絵が恰好いいので、お見せしたかったしだい。変わった題名は、おそらくなにかの引用だろうが、教養がないのでわからない。ご存じの方はご教示願います(追記参照)。

2011-5-17 (Prayers)

 ハーラン・エリスンによる熱烈序文につづいて13の作品がおさめられている。収録作は以下のとおり――

1 黄泉の川が逆流する
2 Eyes I Dare Not Meet in Dreams
3 ヴァンニ・フィッチは今日も元気で地獄にいる
4 Vexed to Nightmare by a Rocking Cradle
5 思い出のシリ
6 転移
7 The Offering *TV台本
8 ベトナムランド優待券
9 イヴァンソンの穴
10 髭剃りと調髪、そして二噛み
11 ケンタウルスの死
12 Two Minutes Forty-Five Seconds
13 死は快楽

 各篇に作者による饒舌な前書きがついている。『ヘリックスの孤児たち』(ハヤカワ文庫SF)でもそうだったが、作者は自作について語るのが大好きらしい。

 人気作家だけあって、かなりの邦訳率だ。
 簡単に補足すると、1はデビュー作、2は長篇『うつろな男』(扶桑社)の原型。5は『ハイペリオン』(早川書房・海外SFノヴェルズ→ハヤカワ文庫SF)に「領事の物語」として組みこまれた中篇(原型のまま海洋SFアンソロジーに入れたいという野望があるのだが、いまのところ実現の見こみなし。残念)。13は長篇『殺戮のチェスゲーム』(ハヤカワ文庫NV)の原型。3と6と9は、オリジナル・アンソロジー『スニーカー』(同前)に書き下ろされた3作で、7は6をTVドラマ用の脚本にしたものである(内容はだいぶちがうらしいが、7を読もうとして挫折したので詳細は不明)。

 残る未訳作品のうち、メモを見ると4には5点満点中2点がついているが、内容はまったく憶えていない。いっぽう12のほうは鮮明に憶えている。
 主人公は宇宙船部品の設計者。かつて上司の圧力に屈し、些細な欠陥があるのを知りながら製品を納入したため事故を招いてしまったという負い目がある。この男は極度の高所恐怖症でもあるのだが、いま会社の重役たちといっしょに飛行機に乗っている。その心の動きを意識の流れ風に追った文芸作品で、宇宙船/航空機の事故をジェットコースターや墜落するエレヴェーターといったイメージで巧みに描きだしている。題名は高度四万六千フィートから墜落するのにかかる時間だという。
 ちなみに、 スペースシャトル〈チャレンジャー〉の爆発事故に触発されて書かれたものだそうだ。(2011年5月17日)

【追記】
 T・S・エリオットの詩「空ろな人間たち」からの引用だと、複数の方から教えてもらった。岩波文庫の『四つの四重奏』におさめられた岩崎宗治訳では「毀たれた石への祈り」となっている。
 ついでに“Eyes I Dare Not Meet in Dreams”も同じ詩からの引用だと判明した。

2013.05.10 Fri » 「なんでも箱」と「ケンタウルスの死」のこと

【承前】
 いまだからいうが、「逃避としての幻想の意味を幻想小説の形式で追求した作品」というのは、『20世紀SF』(河出文庫)というアンソロジー・シリーズの裏テーマのひとつだった。共編者の山岸真氏にも黙っていたが、第1巻エドモンド・ハミルトン「ベムがいっぱい」、第2巻ゼナ・ヘンダースン「なんでも箱」、第3巻トマス・M・ディッシュ「リスの檻」、第4巻ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」、第5巻ジェフ・ライマン「征たれざる国」、第6巻ダン・シモンズ「ケンタウルスの死」は、当方の頭のなかではひとつの流れとして捉えられていたのだ。

 とりわけ「なんでも箱」と「ケンタウルスの死」は、表裏一体のものとして把握されていた。つまり、どちらも生徒と教師の関係を描きながら、「逃避としての幻想」の意味を探っているのに、正反対の結末にいたるからだ。前者の幻想が教師にも生徒にも救いをもたらすの対し、後者はその幻想が木っ端微塵に打ち砕かれるのである。作家の資質のちがいも大きいのだろうが、書かれた時代の差を読みとりたいと思ったのだ。このあいだに「デス博士の島その他の物語」を置けば、そのあたりの事情はもっとはっきりするだろう。

 というわけで、「なんでも箱」、「デス博士の島」、「ケンタウルスの死」という流れはわかりやすいと思うのだが、この点に触れた指摘にはいちども出会っていない。裏テーマなので自分だけわかっていればいいと思っていたが、せっかくの機会なので明らかにしておく。(2011年5月15日)

2013.05.09 Thu » 『征たれざる国』

【承前】
 「逃避としての幻想を幻想小説の形で描いた作品」といえば、ジェフ・ライマンの「征{う}たれざる国」も忘れがたい。カンボジアをモデルにした架空の国を舞台に、戦乱のなかで生きる人々の苦しみや悲しみを綴った作品だが、グロテスクなイメージが横溢していて、悪夢めいた印象を残す佳品である。

 はじめ拙訳が〈SFマガジン〉1989年11月号に載ったのだが、駆け出しもいいころの仕事で、訳文のまずさは自覚していた。さいわい10年以上たって改訳する機会がめぐってきたので、全面的に訳しなおし、山岸真氏と共編した『20世紀SF⑤ 1980年代 冬のマーケット』(河出文庫)に収録した。こちらの訳は、多少は読めるものになっていると思う。

 さて、上述の翻訳は雑誌〈インターゾーン〉に掲載されたヴァージョンを底本としたもので、400字詰め原稿用紙120枚の中篇だが、これを書きのばして単行本にしたヴァージョンが存在する。それが The Unconquered Country (Unwin, 1986)だ。

2011-5-10(Unconquered)

 書きのばしたといっても、頭の部分に大きな書き足しがあるほかは、細かい手直しにとどまるので、全訳しても150枚ないだろう。本としての厚みを出すために、活字の組をゆるくしてあるほか、サーシャ・エイカーマンという人のイラストがたくさんはいっている(いま数えたら15枚あった)。

2011-5-10(Unconquered 2)

 さらに6ページにおよぶ作者の「あとがき」が付いているが、それでも本文134ページの薄いトレードペーパー。

 そうであっても単行本で出したいという編集者がいたということだ。じっさい、それだけの力のある作品である。(2011年5月10日)

2013.05.07 Tue » 『デス博士の島その他の物語その他の物語』

 ついでだからウルフの第一短篇集も紹介しておこう。The Island of Doctor Death And Other Stories And Other Stories (Pocket, 1980) である。いまは懐かしき《タイムスケープ・ブック》の一冊で、ペーパーバック・オリジナルで刊行された。
 画家の名前は記載されていないが、表紙絵はドン・メイツの手になるものだと思う。収録作「アイランド博士の島」の一場面を描いている。

2011-5-7 (The Island of Doctor Death)

 この版元は当時《新しい太陽の書》の刊行を進めており、ウルフを大々的に売りだしていた。短篇の名手として玄人筋から絶賛されていても、ウルフはなかなか短篇集を出してもらえなかったのだが、そのおかげでようやく短篇集がまとまったのだ。隔世の感がある。

 本書には1970年から78年にかけて発表された14篇が収録されている。そのうち邦訳があるのはつぎのとおり――

 「デス博士の島その他の物語」、「アイランド博士の死」、「死の島の博士」、「眼閃の奇蹟」、「アメリカの七夜」

 上記5篇に短篇「島の博士の死」をふくむ「まえがき」を加えたものが、国書刊行会から出ている短篇集『デス博士の島その他の物語』というわけだ。

 以上の作品はすばらしいが、未訳の9篇はわざわざ訳すほどの値打ちはない。ウルフのイメージからは想像もつかないほどストレートな宇宙SFもはいっていて、読むとがっかりする人が多いだろう。この9篇は、このまま埋もれさせておいてもかまわないと思う。

 ところで当方がウルフに惹かれるのは、「人間にとって幻想とはなにか」という問題を幻想文学の形で追求している点である。これについては『20世紀SF④ 1970年代 接続された女』(河出文庫)に「デス博士の島その他の物語」を収録したとき、解説にこう書いた――

「SFやファンタジーは、ときに逃避文学だと非難される。だが、人が逃避に走らざるを得ない状況、幻想が唯一の救いとなる状況があるのではないか。ちょうど、マッチ売りの少女がはかない幻影に慰めを求めたように。本篇は、逃避としてのファンタジーが生まれる瞬間をファンタジーの手法でとらえた傑作である」

 逆にいうと、このテーマを追求していないウルフの作品は、当方にとって関心外なのである。(2011年5月7日)


2013.05.06 Mon » 『ウルフ群島』

【前書き】
 以下は2011年5月6日に書いた記事である。誤解なきように。


 尻に火がついたというやつで、ひたすら仕事に追われている。そのせいでSFセミナーにも行けず、若島正氏のジーン・ウルフ講義を聴講できなかったのは残念だった。

 悔しいので蔵書自慢をする。ものはジーン・ウルフの The Wolfe Archipelago (Ziesing Brothers, 1983) だ。

<2011-5-6 (Wolfe)

 すでにいろいろなところで紹介されているとおり、名作「デス博士の島その他の物語」に端を発する連作をまとめた作品集。小出版社の雄だったジージングの刊行物で、薄手の大判ハードカヴァー、限定1200部のうちの1冊である。もっとも、この本は日本にたくさんありそうな気もするが。

 連作といっても、題名が一種の言葉遊びになっているだけで、内容に直接の関連があるわけではない。それでも、まとめて読むと、共通するトーンとテーマが見えてくるあたり、さすが小説巧者というべきか。

 内容は以下のとおり。すべて邦訳があり、国書刊行会から出た『デス博士の島その他の物語』に収録されている――

まえがき(「島の博士の死」)  Foreword (Death of the Island Doctor)
デス博士の島その他の物語  The Island of Dr. Death and Other Stories
アイランド博士の死  The Death of Dr. Island
死の島の博士  The Doctor of Death Island

 リック・デマーコという人のイラストが3枚はいっているが、たいした絵ではないので一枚だけスキャンしておいた。こういう絵です。

2011-5-6 (Wolfe 2)

 さて、嚆矢となった短篇「デス博士の島その他の物語」は、マイ・フェイヴァリットのひとつで、山岸真氏と『20世紀SF』(河出文庫)というアンソロジー・シリーズを共編したとき、第4巻の1970年代篇に収録した。そのあとわが国でウルフ再評価の流れがはじまったわけで、もしあれが呼び水になったとしたら、こんなにうれしいことはない(じっさいの呼び水が『ケルベロス第五の首』だったのは承知している。まあ、言葉の綾です)。

蛇足 
 この作品が最初〈SFマガジン〉に訳載されたとき、楢喜八氏のすばらしいイラストがついていた。みなさまにお見せしたいが、いま手元にないのでスキャンできない。1972年11月号なので、ぜひ探してご覧ください。(2011年5月6日)


2013.04.15 Mon » 『死なないやつもいる』

【承前】
 ケリー・フリースのイラストを売りにした《スターブレイズ・エディション》紹介3冊め、アルジス・バドリスの Smone Will Not Die (Donning, 1978) だ。

2008-6-4 (Some 2)2008-6-4 (Some 1)

 この本は来歴が複雑なので、ちょっと説明しておくと、もともとは〈ギャラクシー〉1954年3月号に発表された“Ironclad”という中篇が原型。
 これを書きのばして長篇にしたものが、まず False Night (Lion, 1954) として刊行されたが、バドリスの原稿を短縮したものだった。ちなみに、同書はペーパーバックで127ページである。このヴァージョンは『第3次大戦後のアメリカ大陸』(久保書店、1968)として邦訳が出ている。

 さすがに作者としては不満が残ったらしく、元の原稿を修復したうえ、新たに書き足したヴァージョンが、Some Will Not Die (Regency, 1961) として刊行された。こちらはペーパーバックで159ページ。以後はこのヴァージョンがリプリントされていて、《スターブレイズ・エディション》もその例にもれない。

 内容を簡単にいえば、疫病の蔓延で文明が崩壊したアメリカ東部を舞台にしたサヴァイヴァルもの。当時のアメリカのSFとしては、意外なほど暴力的で虚無的な物語が展開される。

 ついでながら書いておくと、冷戦の中期ごろまでは、細菌戦というのも核戦争なみにリアリティがあったらしく、英米の小説にはけっこう目につく。ところが、日本ではそれほどリアリティがなかったらしく(もちろん小松左京の『復活の日』という偉大な例外はあるが)、疫病ではなく核戦争で世界が滅んだと誤解されることが多い。読んだときに誤解しなくても、あとで記憶が改変されるのだろう。
 卑近な例でいうと、エドモンド・ハミルトンの「審判のあとで」という短篇を『反対進化』(創元SF文庫)に入れたとき、この誤解をしている人が多くてびっくりした憶えがある。彼我の想像力のちがいを見るようで面白い。(2008年6月4日)