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SFスキャナー・ダークリー

英米のSFや怪奇幻想文学の紹介。

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2013.05.14 Tue » 〈宝石〉のSF特集その2

 昨日のつづき。
 前回目次を示したように、〈宝石〉1955年2月号のSF特集は、創作3篇、翻訳5篇、エッセイ3篇から構成されている。翻訳作品について、原題や初出等のデータを調べたことがあるので、それを記しておく。

全能の島 ネルソン・ボンド 桂英二訳(40枚)
 Conqueror's Isle  Blue Book,1946,6
ランソン防御幕 アーサー・L・ザガート 平井イサク訳(40枚)
 The Lanson Screen  Thrilling Wonder Stories,1936,12
ロビイ アイザック・アシモフ 多村雄二訳(40枚)*目次には名村雄二訳と誤植
 Robie (Strange Playfellow)  Super Science Fiction,1940,9
冥王星への道 平井喬訳(25枚)
 En Route to Pluto  Astounding Stories, 1936,8
タイム・マシン H・G・ウェルズ 宇野利泰訳(170枚)
 Time Machine  New Review, 1895,1~5

 ちなみに、多村雄二は宇野利泰の筆名だと思われる。確証があるわけではないが、状況証拠から見てほぼまちがいない。推測の根拠を示したいところだが、長くなるので割愛。

 さて、このラインナップをいま見ると奇異の念に打たれる。一応、ミュータント、未来戦争、ロボット、宇宙/異星人、時間とヴァラエティに富んだ内容にはなっているのだが、ウェルズの古典を別格とすると、マイナーな作品ばかり並んでいるのだ。別項で矢野徹が、キャンベル・ジュニア、スタージョン、ブッラドベリ、ハインライン、シェクリイなどの作品を喧伝しているので、そのギャップにとまどう。

 出来のほうもイマイチで、アシモフの「ロビイ」をのぞけば、ここに訳載されたきり、いまでは忘れられた作品ばかりだ。

 理由として考えられるのは、まず版権を取得せずにすませようとしたこと。1950年代に発表された作品は、この時点ではバリバリの新作だったのである(じっさい、室町書房はちゃんと版権をとっている)。

 つぎに考えられるのは、入手できる原書がかぎられていたこと。憶測だが、ザガートとウェストの作品は、グロフ・コンクリン編の Best of Science Fiction (Crown, 1946) というアンソロジーから採ったと思われる。
 アシモフの作品は、解題に「グロフ・コンクリン編纂のロボット小説傑作集の序文によれば」という記載があるので、やはり同編のアンソロジー Science Fiction Thinking Machines (Vanguard, 1954 か Bantam, 1955)から採ったのではないか。
 残るボンドの作品だが、これも初出誌や著者の短編集ではなく、オーガスト・ダーレスかフレッチャー・プラットかジョゼフ・ギャラントの編んだアンソロジーのどれかから採ったのではないだろうか。

 だが、そうすると、それらのアンソロジーには、もっといい作品があったはずなので、選んだ人の鑑識眼を疑いたくなる。はたして真相やいかに。(2008年11月30日)
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2013.05.13 Mon » 〈宝石〉のSF特集その1

 昨日のつづき。
 〈宝石〉といえば、戦後ミステリの復興に多大な功績のあった伝説の雑誌だが、当方の知るかぎり、SF特集を4回組んでいる。その嚆矢となったのが、1955年2月号の「特集 世界科学小説集」だ。

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 1号でつぶれた(これまた)伝説のSF誌〈星雲〉が1954年12月創刊、昨日ふれた室町書房〈世界空想科學小説全集〉の発刊が1955年1月と並べてみれば、このころ最新の英米SFの影響のもとに、わが国でもSFを根付かせようという機運が盛り上がっていたことがわかる。

 その中心人物のひとりが矢野徹で、〈星雲〉やこの特集のブレーンだったことは明らかだが、この号の目次(図版下)を見ると、ほかにも興味深い名前が見つかる。

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 戦前から戦中にかけてSFを発表していた北村小松は別格としても、室町書房版SF叢書のブレーンだった平井イサク、のちに矢野徹らと科学小説創作集団〈おめがくらぶ〉を結成する夢座海二。このあたりの人脈はどうなっていたのだろうか。詳細をご存じの方はご教示ください(追記参照)。

 編集後記が面白いので、文字遣いを新字に直して一部を紹介する。なにかいろいろと考えさせられる文章だ――

○探偵小説界は一分野としてサイエンスフィクションに重力を置くべきは論をまたないが、これが、科学小説と空想科学小説と二つの呼称に分類されることもちろんだが、今回は共に科学小説と呼ぶ。
○もちろんが続くが、科学は日進月歩、昨日の空想が今日の現実となり、過去ともなる。水爆問題がいい例。だが、空飛ぶ円盤など小説に取扱われたらその分類に議論が湧きそうである。
(中略)
○科学者が、科学小説に限らず推理小説を書きだす新機運がある。すくなくとも探偵小説界の来年度は取材の範囲と、作家的視野がぐんと拡がることはたしかだ。(永瀬)

 ありゃ、前書きのつもりが長くなってしまった。肝心の作品については項をあらためたい。

 ちなみに、星新一が「セキストラ」をひっさげて〈宝石〉に登場したのは、1957年11月号であった。

蛇足。
 矢野徹がアッカーマンの招きで渡米し、かの地のSF事情を見聞してきたのが1953年5月から11月にかけて。渡米直前に江戸川乱歩を訪ねたが、そのときの模様を乱歩が「科学小説の鬼――S・Fの勃興・その略史 附・ヴェルヌ邦訳書誌――」という随筆として発表したのが、同誌1953年8月号である。とくれば、この特集の早さがわかってもらえるだろう。(2008年11月29日)

【追記】
 丘美丈二郎も〈おめがくらぶ〉の同人で、京都を拠点とするミステリ系の同人誌〈密室〉を通じても矢野とは接点があったようだ。代島正樹氏のご教示による。深謝。
 これを機に、『矢野徹・SFの翻訳』(奇想天外社, 1981)を引っぱりだしてきたら、180ページに〈密室〉のこと、181ページに〈おめがくらぶ〉や平井イサク氏のことが書いてあった。もっとあとには、早川書房がSFの牙城になったのは、福島正実よりは社長の早川清の功績のほうが大きい、という意見も書いてあった。本は読み直してみるものだなあ。


2013.05.12 Sun » 室町書房の広告

 古い〈宝石〉(1955年2月号)をひっくり返していたら、面白い広告にぶつかった。伝説の室町書房《世界空想科學小説全集》の広告である。こんなもの、すっかり忘れていた。

 室町書房の《世界空想科學小説全集》といえば、1955年の1月と2月にアイザック・アシモフ『遊星フロリナの悲劇』(別訳題『宇宙気流』)とアーサー・クラークの『火星の砂』を刊行したが、あとがつづかなかった先駆的SFシリーズとして名高い。ちなみに、当方は前者しか持っていない。
 元々社の《最新科学小説集》より1年早いと書けば、その先駆性がおわかりだろう。訳者はどちらも平井イサクなので、この人がブレーンだったと思われるが、その見識は高く評価されていい。

 この広告を見ると、幻の続刊予定が載っているのだが、これがちょっと面白い。

2008-11-28

 原書を調べたので、その情報を併記しておく。

『時の限界を越えて』フレデリック・ポール
 Beyond the End of Time (Permabooks, 1952) *アンソロジー
『わが支配下の宇宙』フレデリック・ブラウン
 Space on My Hand (Shasta, 1951) *『宇宙をぼくの手の上に』(創元SF文庫)短編集
『蜃気樓の住人』A・メリット
 Dwellers in the Mirage (Liveright, 1932) *『蜃気楼の住人』(ハヤカワ文庫SF)
『目的地は宇宙』A・E・ヴァン・ヴォークト
 Destination: Universe ! (Pellegrini & Cudahy, 1952) *『終点:大宇宙』(創元SF文庫)短編集
『明日は星へ』ロバート・A・ハインライン
 Tomorrow, The Stars (Doubleday, 1951) *アンソロジー
『白い未亡人』サム・マーウィン
 The White Widows (1953, Doubleday)
『時間と空間』レイモンド・J・ヒーリイ編
 Adventures in Space and Time (Random, 1946) *アンソロジー、J・フランシス・マッコーマスと共編 『時間と空間の冒険』(ハヤカワ・SF・シリーズ)

 広告ではハインラインとヒーリイ編にだけ「短篇集」と記載されているのだが、これは混乱を招く。正確には『時の限界を越えて』と『明日は星へ』と『時間と空間』が、それぞれポール編、ハインライン編、ヒーリイ&マッコーマス編のアンソロジー。『わが支配下の宇宙』と『目的地は宇宙』が、それぞれブラウン、ヴァン・ヴォートの個人短編集である。

 ご覧のとおり、なかなかのラインナップだが、ひとつだけ浮いている気がするのが、サム・マーウィン・ジュニアの『白い未亡人』。サスペンスタッチのミステリ風SFだと想像されるが、どこか見所があるのだろうか。気になるので、そのうち原書を探そう。

 ちなみに、この号の〈宝石〉は「世界科学小説集」というSF特集を組んでいる。次回はこれについて書こうと思う。(2008年11月28日)

2013.02.27 Wed » 愉快な広告

 しばらく前に手に入れた本に、マンリー・ウェイド・ウェルマンの Battle in the Dawn (Paizo, 2011) がある。
 この本に関してはいずれ詳しく書くだろうが、今回とりあげたいのは、同書の巻末広告だ。

2012-9-12(Battle)

 パルプ・マガジンの現物をご覧になった人は知っているだろうが、新案特許商品をはじめとして、なにやら怪しげな広告がたくさん載っている。上に掲げた図版はそれを模したもので、パイゾが出している叢書《プラネット・ストーリーズ》の宣伝になっている。

 面白いのは、似顔絵つきで証言している人物が、実在・虚構をとり混ぜたSF関係者になっていること。左上から順にリストアップしてみよう――

1 アレグザンダー・ブレイド (ニューヨーク州ニューヨーク市)
2 S・M・テネショウ (マサチューセッツ州ボストン)
3 カーティス・ニュートン機長 (カリフォルニア州ヨーバ・リンダ、愛国航空)
4 ディック・オウリンスン (ウィスコンシン州レイク・ジェネヴァ)
5 N・W・スミス ニューヨーク州スケネクタディ)
6 マシュー・カース (火星、カホラ)
7 ウィル・ガース (イリノイ州シカゴ)

 1と2と7はいわゆるハウスネーム。出版社が所有しているペンネームで、いろいろな作家がこの名前を使って雑誌に作品を発表した。
 どうしてそんなことになったかというと、パルプ・マガジンの場合、カラー印刷の表紙を数カ月分まとめて刷るため、先に小説の題名とハウスネームが決まることが多かったからだ。したがって、表紙絵や、ときには先に発表された惹句や粗筋に合わせて書けそうな作家に白羽の矢が立ち、じっさいの小説を書かせたわけだ。
 ロバート・シルヴァーバーグの証言によると、一部の出版社では、特定の子飼い作家たちが複数のペンネームやハウスネームを駆使して誌面を埋めており、新規参入の余地はないに等しかったという。

 3と5と6はSF小説の主人公・3と5は説明するまでもないだろう(機長は英語だとキャプテン)。6はリイ・ブラケットのさる長篇(邦訳あり)の主人公で、住所がヒントになっている。たぶんほかの住所にもいわれがあるのだろう。

 4は証言のなかで「自分はテーブルトップ・ゲーマーだ」といっているので、リチャード・オウリンスンというゲーム系のファンタシー作家だと思うが、自信はない。ご教示いただければさいわい。綴りは Dick Awlinson である。(2012年9月12日)




2013.02.15 Fri » 州浜昌宏のこと

 浅倉久志氏が、伊藤典夫氏とふたりで〈SFマガジン〉の社外ブレーンを永らく務められていたことは、わりに知られていると思う。
 翻訳掲載する作品の選択や、作品解説の執筆を行なわれていたわけだが、あまり知られていないのは、おふたりが新人翻訳家の訳に添削をされていたことだ。じつは当方も添削してもらったひとりで、浅倉さんに見ていただいた。その原稿は、いまでも宝物として大事にとってある。

 さて、新人の原稿に朱がはいりすぎて、実質的な共訳になってしまった場合は、ペンネームで掲載された。浅倉さんの場合は、州浜昌宏という名義が使われた(伊藤氏の場合は鵜飼裕章)。この名義の翻訳は、SFマガジンに3篇掲載されている――

1982-11「さあ、みんなで眠ろう」アヴラム・デイヴィッドスン
1983-1「天国にあと一歩」ギャリー・キルワース
1984-7「転覆」マック・レナルズ

 デイヴィッドスンの作品は、短篇集『どんがらがん』(河出書房新社、2005)が出るとき、浅倉さんが訳しなおし、浅倉名義で発表された。

 ところで、州浜昌宏のいわれはなんだろう。これもなにかのもじりだろうか。ご存じの方がいれば、ぜひ教えてください。(2010年3月3日)

2013.02.05 Tue » ジオーン、ジオーグ、プオール、ルウンガ

【前書き】
 もうひとつクイズを、ということで、2006年9月21日に書いた記事を公開する。


  マイクル・ムアコック作《ルーンの杖秘録》第3巻『夜明けの剣』(創元推理文庫)解説のゲラが届いた。入稿時に出来の悪さを指摘され、ずっと気に病んでいた原稿である。
 というのも、さっぱり筆が進まなくて、苦し紛れに自虐的なギャグを書いたら、編集者に駄目だしをくらい、「時間がないからとりあえず入稿するが、ゲラで直すように」といわれていたのだ。今回その部分はバッサリ削って、大幅に書き足し、多少は読めるものになった。ムアコック自身の言葉を引用し、このシリーズの特質を浮かびあがらせたつもりだ。

 で、その解説にもちょろっと書いたのだが、《ルーンの杖秘録》には、いろいろと遊びがある。たとえば、第4巻『杖の秘密』にグランブレタン帝国の古代神の名前が列挙されるのだが、すべて同時代英国人のもじりなのだ。たとえば、「この地を支配していたといわれる」――

Jhone, Jhorg, Phowl, Rhunga

 これは非常にわかり易くて、ビートルズのメンバーの名前。もっとも、邦訳では「ジオーン、ジーグ、ブオール、ルウンガ」になってしまう。
 さて、つぎの名前の元はなんでしょう?

Chirshil, the Howling God
Bjrin Adass, the Singing God
Jeajee Blad, the Groaning God
Jh'Im Slas, the Weeping God
Aral Vilsn, the Roaring God, Supreme God

(2006年9月21日)

【追記】
 回答はこちら


2013.02.01 Fri » ノヴェラとノヴェレット

【前書き】
 これまでノヴェラやノヴェレットという言葉を説明ぬきで使ってきたが、いちどきちんと説明しておこうと思う。というわけで、以下の記事を公開する。


 わが国では短篇と長篇という言葉が恐ろしいほど恣意的に使われていて、400字詰め原稿用紙換算で200枚の短篇もあれば、300枚の長篇もあるといった具合だが、アチラではかなり厳密な区分がされている。ヒューゴー賞の基準を例にとると、つぎのようになっている――

ショート・ストーリー(短篇) 60枚未満
ノヴェレット(中篇) 60枚以上120枚未満
ノヴェラ(長い中篇) 120枚以上330枚未満
ノヴェル(長篇) 330枚以上

 付け加えれば、20枚未満の作品をショート・ショート・ストーリー、250枚から330枚くらいの作品をショート・ノヴェルと呼ぶこともある。
 ついでに書いておくと、ノベレットというのは長めの短篇、ノヴェラというのは短めの長篇といった趣がある。

 ヒューゴー賞の話をすると、むかしは短篇と長篇の2部門しかなかった。これでは30枚の短篇と、250枚のノヴェラが同じ土俵で争うことになる。それはあまりにも無茶だという反省から、部門が細分化されたという経緯がある。
 もちろん、グレーゾーンは存在するので、ときにはノヴェレット部門の受賞作とノヴェラ部門の受賞作の長さがほぼ同じというような事態も起こるが、この区別は意識しておいたほうがいい。

 短篇、中篇、長篇と並べると、たんに長さのちがいだけに思えるが、英語ではべつの名前がついているように、それぞれかなり性格がちがうものなのである。(2008年12月9日)

2013.01.29 Tue » 誤訳の実例

 昨日チャールズ・L・ハーネス作「現実創造」の旧訳は誤訳だらけだと書いた。実例を示さないと、いいがかりになってしまうので、具体例を示すことにした。

 まずは最後からふたつめのパラグラフ。「科学の危険性とその馴致」というテーマの結論部である。

 And they'd keep it this way, simple and sweet, forever, and their children after them. To hell with science and progress! (Well, within practical limits, of course.)

中上守(川村哲郎)訳
 単純にして甘美な、この素晴らしい世界は永久にわたしたちのものだ、そしてわたしたちの子孫のものなのだ! 科学も進歩もくそくらえ!(「どうせ、そんなものは、ごく限られた範囲でしかあり得ないことなのだから」)

拙訳
 世界は永久にこのままにしておこう、単純素朴で美しいままに。子供たちにも、そのまた子供たちにもそうさせよう。科学や進歩なんてくそくらえだ! (まあ、もちろん、実用的な限度内でなら大目に見るが)

 ご覧のとおり、中上訳は意味が逆になっている。作品のテーマを理解していれば、こんな誤訳をするはずがないのだが。

 中上訳はこの程度の誤訳が各ページにひとつくらいあると思ってもらっていい。そのひとつひとつ検証するわけにはいかないので、いちばん笑えた誤訳を紹介しておく。

 諜報部員の主人公が、暗闇にまぎれて、ある科学者を監視している場面。

 Prentis had clipped the hairs from his norstrils and so far had breathed in complete silence.

中上訳
 プレンティスは一本一本、丹念に鼻毛を抜きながら、息を殺してじっと潜んでいた。

拙訳
 プレンティスは鼻毛をぬく処置をすませていた。おかげでこれまでのところは、まったく音をたてずに呼吸していた。

 中上訳を読むと、のんきな諜報部員に思えるが、じっさいは敏腕なのである。(2007年12月12日)

【追記】
 本文中の中上守訳は〈SFマガジン〉1990年10月号掲載の「現実創造」より引用した。これは1964年7月号に川村哲郎名義で掲載されたものの再録である。

 拙訳は中村融/山岸真編『20世紀SF①1940年代 星ねずみ』(河出文庫。2000)より引用した。

2013.01.24 Thu » ワイドスクリーン・バロック

【前書き】
 チャールズ・L・ハーネスがらみの話をつづけたいのだが、そうなるとワイドスクリーン・バロックという概念について触れないわけにはいかない。したがって、2008年12月14日に書いた記事を公開する。


 昨日になるが、ワイドスクリーン・バロックについて語ろうという集まりがあって参加してきた(追記参照)。長年のワイドスクリーン・バロック好きとしては、ちょっと黙っていられなかったのだ。

 というのも、言葉がひとり歩きして、とんでもない拡大解釈がまかり通っているからだ。げんに井上ひさしの『吉里吉里人』をワイドスクリーン・バロックの傑作と持ちあげている例を見たことがある。
 ここまでひどい勘違いでなくても、およそ本来の意味とはかけ離れた用例が氾濫していて、ひとこといいたかったのである。

 この言葉はブライアン・オールディスが1964年に発明した造語。チャールズ・L・ハーネスというマイナーなSF作家の隠れた傑作 The Paradox Men がイギリスではじめて刊行されたとき、その序文でオールディスが同書の作風を説明する言葉として考案し、同系統の作品をあげてカテゴライズを図ったという経緯がある。

 NEL版の序文から、その定義を引用する――
「ワイドスクリーン・バロックでは、空間的な設定には少なくとも全太陽系ぐらいは使われる――そしてアクセサリーとして、時間旅行が使われるのが望ましい――それに、自我の喪失などといった謎に満ちた複雑なプロット、そして身代金としての世界というスケール、可能性と不可能性の遠近法がドラマチックに立体感をもって描きだされねばならない。偉大な希望は恐るべき破滅と結びあわされる。理想をいえば、登場人物の名は簡潔で、寿命もまた短いことが望ましい」(安田均訳を一部改変)

 そしてオールディスがワイドスクリーン・バロックとしてあげたのは、E・E・スミスの諸作(おそらく《レンズマン》シリーズを念頭に置いている)、A・E・ヴァン・ヴォートの《非A》二部作、アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』、ハーネスの同書、パロディの面が強いという留保つきでカート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』であった。
 
 ここで留意したいのは、これらの作品がいずれもスペース・オペラの形式で書かれていることだ。要するにワイドスクリーン・バロックとは、スペース・オペラと総称される母集合のなかの異彩を放つ部分集合なのである。

 この点を押さえておかないと、すべてのワイドスクリーン・バロック論議は空しいものとなる。

 たとえば、ベスターの『虎よ、虎よ!』はワイドスクリーン・バロックの金字塔だが、『分解された男』はワイドスクリーン・バロックではない。
 ところが、『虎よ、虎よ!』→ワイドスクリーン・バロックの傑作→ベスター=ワイドスクリーン・バロック作家→『分解された男』もワイドスクリーン・バロック、という筋道で誤解が生まれ、これが蔓延している。
 同じことはハーネスにもいえて、ワイドスクリーン・バロックとはなんの関係もない凡作『ウルフヘッド』がワイドスクリーン・バロックとされ、ワイドスクリーン・バロックとはこんなものか、という誤解を生んでいる。
 こんなもんじゃないのだ、と叫びたくて何度歯がみしたことか。

 ともかく、大前提としてワイドスクリーン・バロックとはスペース・オペラの亜種だという認識を広めなければならない。話はそれからだ。

 いかん。ワイドスクリーン・バロックと聞くと、つい熱くなってしまう。ハーネスの作品を紹介しようと思っていたのだが、長くなったので項をあらためる。(2008年12月14日)

【追記】
 SFファン交流会12月例会のこと。テーマは「ベイリー追悼『私の愛したベイリーとワイドスクリーン・バロック』」だった。このときワイドスクリーン・バロックを「ワイバロ」と略す参加者がいて、比較的高い年齢層に衝撃をあたえた。

2012.12.27 Thu » 『分解された男』幻のプロローグ

 思うところあってアルフレッド・ベスター『分解された男』(創元SF文庫)を読みなおした。
 沼沢洽治訳の創元版を読むのは3度め。このほか伊藤典夫訳『破壊された男』(ハヤカワ・SF・シリーズ)を1度読んでいるのだが、今回もやはり面白く読めた。
 とにかく、たたきつけるような文体と、歯切れのいい会話がもたらす疾走感がすごい。さすがにラジオで鍛えあげられただけはある。文体の密度という点で、70年代以降の作品とはくらべものにならない。そうそう、これがベスターだよ。

 いまとなってはそのあたりの事情がわかりにくくなっているが、タイポグラフの実験や、人名を「@キンズ」と表記するようなお遊びも、当時の読者にはさぞかし新鮮だったのだろう。アメリカでは永らく『虎よ、虎よ!』より本書のほうが人気が高かったというのもうなずける。もし紹介順が逆だったら、わが国でも『分解された男』のほうに軍配があがったかもしれない。

 ところで、『分解された男』には幻のプロローグが存在するのをご存じだろうか。1952年のSF誌〈ギャラクシー〉連載時にはついていたものが、翌年シャスタから刊行されたときに削られたのだ。まだ第二次世界大戦後の紙不足の影響が残っているころで、紙を節約する必要があったらしい。
 それ以後、半世紀近くのあいだ、このプロローグは幻だったのだが、2000年になって事態が変わった。ibooks から Redmolished というベスターの落ち穂拾い的作品集が出たとき、おまけつきで同書に収録されたのだ。ちなみに当方は、4年後に出た同書のペーパーバック版で読んだ。

 さて、プロローグの内容だが、『虎よ、虎よ!』のそれと同様、物語がはじまる前の背景説明となっている。つまり、エスパー社会ができるまでや、物語で重要な役割を果たすコンツェルンの起源が語られるのだ。
 もっとも、本筋にはまったく出てこない反重力(Nulgee という用語が使われている)発見の顛末が記されているなど、むしろ邪魔なエピソードが多い。いま見る形のほうがずっとすっきりしているし、ベン・ライクの悪夢を描いた冒頭の衝撃度も大きい。このプロローグを削除した編集者の判断は正しかったと思う。

 蛇足ながら、おまけというのは、編者による解説と、“Writing and The Demolished Man”と題されたベスターのエッセイ。後者は1972年にファンジン〈アルゴル〉に発表されたもので、『分解された男』執筆にまつわる裏話を明かしながら、自己の創作作法について語っている。それによると、テレパスのパーティー場面(タイポグラフの大規模な使用)が、スプリングボードになったらしい。なるほど。(2010年9月28日)

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