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SFスキャナー・ダークリー

英米のSFや怪奇幻想文学の紹介。

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2013.07.16 Tue » 『天使たちの戦い』

【承前】
 《第二エーテル》シリーズは Blood: A Southern Fantasy (1995), Fablous Harbors (1995), The War amongst the Angels (1996) の三作から成っている。つまらない本の話を長々とする気はないので、ここではもっとも重要な The War amongst the Angels だけとりあげる。初版は英国ミレニアム社のハードカヴァーだが、当方が持っているのは翌年米国のエイヴォンから出たハードカヴァーである。

2007-6-95 (War)

 本書の末尾にはこう記されている――

the end of an autobiographical story by Michael Moorcock

 だが、本書はふつうの意味での「自伝的小説」とはほど遠い。なにしろ主人公は、1820年代のロンドンに生まれたマーガレット・ローズという女性。英国貴族ムアコック卿とジプシーの母のあいだに生まれた彼女は、ドイツのフォン・ベック家に嫁ぎ、まもなく離婚したが、以後もローズ・フォン・ベックと名乗りつづける(ちなみに、彼女には小説を書いているマイクルという頭のおかしい叔父がいる)。
 この女性がひょんことから鉄道を襲う盗賊団に身を投じ、さらには多元宇宙を股にかけた〈法〉と〈混沌〉の戦いに巻きこまれ、〈法〉の圧制を挫こうとする、というのが骨子。

 シリーズの題名になっている「第二エーテル」というのは、宇宙の〈単一〉化を押し進める〈法〉の圧制を嫌った者たちが創った「第二の宇宙」のこと。これを創った者たちは、〈混沌の技術者たち〉と呼ばれている。
 いっぽうローズは、多元宇宙を自由に行き来する能力を持つフガドル(遊戯者)という人種に属している。

 ローズにはサム・オークンハーストという恋人がいるが、彼の率いる盗賊団の冒険を描いたのがシリーズ第一作 Blood 。彼らの活躍は、べつの多元宇宙では娯楽読み物として刊行されており、すでに千四百章を軽く超している。同書はメタフィクションの形式でこの両者を記述しており、この趣向は第三作にも一部引き継がれている。

 さて、本書ではローズの波乱に満ちた半生が語られるわけだが、その形式が凝っている。メインはローズ本人の一人称だが、すでに記した通り、ローズやサムの冒険を描いた娯楽読み物の断片が混じったり、ほかの人物の一人称や三人称の記述が混じるのだ。
 野心的であることは認めるが、効果をあげているとは思えず、むしろ混乱を助長するばかり。とりわけ、一人称が入り交じると、なにがなんだか分からなくなる。意図的に混乱させようとしているとも思えないので、性格の書き分けができてないからだろう。

 もうひとつ感心しないのは、悪い意味でフェミニズム色が強いこと。版権表示を見ると、このシリーズは夫人リンダとの共作になっている。ということは、本書の内容の多くはフェミストである夫人に多くを負っているのだろう。ムアコック自身がその思想を消化しきっていないため、底が浅くなっていると思われる。

 要するに、本書はムアコック自身の精神遍歴の小説化である。だが、みずからの内面を分析し、図式化しすぎたため、小説としては薄っぺらいものになってしまった。これが当方の感想である。(2007年6月9日)

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2013.07.15 Mon » 《第二エーテル》シリーズ

【承前】
 1960年代カウンターカルチャー世代のムアコックにとって、「混沌=エントロピー」であり、エントロピーの増大により宇宙/世界/社会/人生が崩壊していくのをいかに食い止めるかがテーマだった。したがって、混沌が勢力をました状況で〈法〉のために戦い、〈均衡〉をとりもどす話ばかり書いていた。

 しかし、本人は反体制の人なので、心情的には〈混沌〉に与しており、そのあたりの葛藤が作品に緊張と陰影をもたらしていた。《エルリック》や《コルム》が傑作となった所以である。

 ところが《第二エーテル》の場合、この関係が逆転している。宇宙に〈単一〉の価値観を押しつけ、すべてを一元的に管理しようとする〈法〉に対して、〈混沌〉、すなわち〈多様性〉がささやかな反逆を試みるというのが、その骨子だからだ。

 ここには80年代の政治状況が透けて見える。サッチャー政権は左翼とそのシンパである知識人をねらい撃ちにする政策をとり、言論の弾圧や新たな課税でぎゅうぎゅうに締め付けた。ムアコックの友人も投獄されたらしい。こうした状況に異を唱えるために《第二エーテル》シリーズは書かれたと思しい。この場合の〈法〉は警察国家とほぼ同義である。

 だが、テーマや主張が立派だからといって、すぐれた文学作品が生まれるわけではない。むしろムアコックは、主張をストレートに出しすぎて墓穴を掘った感がある。

 もうひとつ問題なのは、自分の作品に対して、ムアコックが自覚的になりすぎた点だ。
 これまでのムアコックの作品は、無意識のうちに書かれた自伝であり、本人にもよくわかっていないドロドロしたものが、ファンタシーの形で表現されていた。
 ところが50代にはいって知恵がついたのか、ムアコックは自分の小説技法と精神遍歴を分析し、それを批判的に小説化しようとした。それが《第二エーテル》シリーズだ。したがって、このシリーズはメタフィクションと一種の自伝として書かれている。
 だが、できあがった作品は、非常に図式的で薄っぺらなものになってしまった。すくなくとも、当方には読むのが苦痛であったのだ。

 長くなったので、つづきは明日。(2007年6月8日)

2013.07.14 Sun » 『ギャラソームの戦士』解説

 マイクル・ムアコックの新版《ブラス城年代記》第二巻『ギャラソームの戦士』(創元推理文庫)が届いた。
 本書には堺三保氏が新しく解説を寄せていて、これが充実した内容。近年のムアコック作品における特徴を概説し、それを作品史のなかに位置づけたもので、非常に啓発的である。一読の価値があるので、旧版をお持ちのかたも是非目を通されたい。

 とはいえ、些細な瑕疵もあるので、ちょっとそのことを書いておく。
 まず二箇所出てくる《フォン・ベック》シリーズ第一作の表題だが、『墜ちた天使』ではなく、『堕ちた天使』が正しい。まあ、こういうケアレス・ミスは当方もしょっちゅうやるので非難できる筋合いではないが、この種のまちがいは、だれかが指摘しないと永久にくり返されるので、注意をうながしておく。

 つぎに未訳の《第二エーテル》シリーズについて、「現実を操作しようと暗躍する《混沌》の技術者たちと戦い、その果てには堕天使ルシファーと対決する」とあるが、この記述は誤りとまではいえないにしても、誤解を招く。というのも、このシリーズにおける敵(あるいは悪役)は《混沌》ではなく、もっぱら《法》の側だからだ。

 ムアコックによれば、《法》は人間や社会にとって必要なものだが、行きすぎると警察国家や超管理社会を生みだし、人間の自由や創造性を圧殺する。
 いっぽう《混沌》は創造性の源泉だが、行きすぎればアナーキズムやテロリズムを生みだし、人間にとって害悪となる。
 したがって、両者のバランスをどうとるかが問題で、これがムアコックが一貫して追及しているテーマである。

 《第二エーテル》シリーズは、90年代のムアコックがこの問題に取り組んだ産物だが、その結果はあまり芳しいものとはいえなかった。すくなくとも、当方はこのシリーズに失望して、ムアコックの作品を追いかけなくなった。
 すでに長くなっているので、この点については項をあらためる。これから本を引っぱりだしてくるので、つづきは明日にでも。(2007年6月7日)

2013.07.13 Sat » 『死は障害に非ず』

【前書き】
 いい機会なのでマイクル・ムアコック関係の記事をつづける。以下は2006年11月25日に書いたものである。


 この前マイクル・ムアコックの新版《ルーンの杖秘録》第三巻『夜明けの剣』(創元推理文庫)に解説を書いた。そのとき主な資料にしたのが、コリン・グリーンランドによるロング・インタヴュー Death Is No Obstacle (Savoy, 1992) だった。ちなみに、アンジェラ・カーターの序文つき。

2006-11-25 (Death)

 もともとはムアコックが創作指南書を書く予定だったのだが、ちっとも書かないので、インタヴューに変わったらしい。聞き手のグリーンランドは、ムアコックを中心にしたニュー・ウェーヴ論でデビューした人であり、ムアコックとの信頼関係も厚く、うまく本音を引き出している。

 《エルリック》シリーズとの関連で出てくるので、こんどの解説には書かなかったが、同書においてムアコックが、〈剣と魔法〉もの長篇の書き方を明かしている。それによると――

1 6万語(約500枚)を4部に分ける。
2 各部を6章に分ける。
3 4ページ毎に事件が起きるようにする。
4 世界を救うのに六日しかないことにする。
5 舞台となる世界の地図を描く。
6 アクションの詳細を練る。
7 すわって書きはじめる。

 これで一丁できあがり。ムアコックは一日に1万5千語のペースで書いていたという。とすると『剣の騎士』のような傑作が、4日で生まれたことになるから、驚くしかない。

 もっとも、〈剣と魔法〉については全7部のうちの1部があてられているにすぎない。自作のSFや主流文学についてもムアコックが縦横に語っているが、その多くは未訳なので、本書の翻訳を出してもあまり意味はない。もっとも日本の読者の大半は、ムアコックの作品ではなく、ムアコックの〈剣と魔法〉だけが好きなのだから、出しても興味を示さないだろうが。(2006年11月25日)

2013.07.12 Fri » 続・ムアコックのファッション

【承前】
 先日ムアコックの小説に出てきた「パンタロン」は、70年代初頭イギリスの風俗だろうと書いたが、そうではなくて、むかしの西洋男性が履いていたダブダブのズボンではないか、と酒井昭伸さんからご指摘を受けた。
  
 作中の記述を見ると、ジャリー・ア・コネルは膝までのブーツを履いている。とすれば、ズボンの裾が見えるわけがない。したがって、当方の書いたことはまちがいだった。ここに謹んでお詫びと訂正をする。みなさま、申しわけありませんでした。

 いいわけになるが、当方が勘違いしたのは、「ジャリー=ムアコックの分身」という思いこみが強かったから。そういうわけで、ジャリー・ア・コネルと聞くと、下に載せた写真のようなイメージが思いうかぶのだ。

2007-12-13(Moorcock)

 鍔広の帽子、道化師風のジャケット、パンタロン、ブーツ。これで肩に猫を乗せていたら、ジャリーその人に見える――というのは当方の思いこみで、小説の記述とはちがうのでした。勝手な思いこみは駄目だねえ。妄言多謝。(2007年12月13日)

2013.07.11 Thu » ムアコックのファッション

【前書き】
 昨日の記事にムアコックが組んでいたロック・バンドの名前がチラリと出てきた。それに関する記事をご覧においれるが、これは当方の勘違いに終始した文章であった。まったく面目ない。つぎの記事で訂正するが、その前提としてまず誤りをお読みください。ちなみに、2007年12月6日に書いたものである。誤解なきように。


 今日マイクル・ムアコックの《コルム》シリーズを読んでいるさいちゅうだという人としゃべっていたら、作中に「パンタロン」という言葉が出てきてびっくりしたといわれた。ジャリー・ア・コネルの台詞なので、70年代初頭のイギリスの風俗をいったのだろ。
 
 まあファンタシーの書き手としてのムアコックしか知らない人からすればそうかもしれないが、この人は楽屋オチに近い自伝的要素を作中に入れておくのが習いなので、それは自分や仲間のファッションを描いたものであり、意外でもなんでもないと答えておいた。

 で、気づいたのだが、当時のムアコックがどんな恰好をしていたか、わが国ではまったく知られていない。じつは写真がたくさん残っているので、それを紹介することにした。

2007-12-6(Moorcock 3)

2007-12-6(Moorcock 2)

 上にかかげたのは、ムアコックがやっていたロック・バンド、マイクル・ムアコック&ザ・ディープ・フィックスのCD Roller Coaster Holiday のジャケットと、ブックレットに載っていた写真である。
 髭のおじさんがムアコック。1975年に撮影された写真。

2007-12-6(Moorcock 1)

上はザ・ディープ・フィックスより前のバンド、ザ・ベリーフロップスの写真。1964年ごろに撮影されたもの。帽子をかぶっているのがムアコックで、その隣がチャールズ・プラット。右上のセーターの人がラングドン・ジョーンズ。(2007年12月6日)

【追記】
 上述のとおり、この「パンタロン」の解釈はまったくの誤解。ほんとうは「太腿の部分がふくらんでいて、膝から下が細くなった形のズボン」だった。酒井昭伸氏よりご指摘を受けて、つぎの記事で訂正した。

2013.07.10 Wed » 『時を生きる種族』

【承前】
 アンソロジー『時を生きる種族』の表題作を表題作にしたのが、マイクル・ムアコックの短篇集 The Time Dweller (Rupert Hart-Davis, 1969) だ。ただし、当方が持っているのは、71年にメイフラワーから出たペーパーバック版の3刷(1975)である。

2013-7-5 (Time)

 収録作はつぎのとおり。例によって発表年と推定枚数も付す――

1 時を生きる種族  '64 (50)
2 夕暮れからの脱出  '65 (75)
3 The Deep Fix  '64 (150)
4 The Golden Barge  '65 (35)
5 Wolf  '66 (20)
6 Consuming Passion  '66 (25)
7 The Ruins  '66 (20)
8 フェリペ・サジタリウスの快楽の園  '65 (35)
9 山  '65 (30)

 このうち3、7、8、9はジェイムズ・コルヴィン名義で、4はウィリアム・バークリー名義で発表された。

 発表年を見ればわかるが、いわゆるニュー・ウェ-ヴ運動まっただなかのころの作品。J・G・バラードの影響を強く受けた作品群である。寓話的というか、象徴主義的というか、ときに難解な印象をあたえる。
 その好例が8と9で、たぶんこの方向性におけるムアコックの最高傑作だろう。

 いっぽう、連作を構成する1と2は、もうすこし伝統のSF寄り。はるかな未来、滅びゆく地球を舞台に、われわれとはまったくちがう時間概念を持つように教育され、「時を生きる種族」となった者たちの物語だ。
 クラーク・アシュトン・スミスの《ゾシーク》シリーズやジャック・ヴァンスの《滅びゆく地球》シリーズの似た味わいがあり、当方が偏愛する種類の小説である。とはいえ、冒険よりは思弁に重点が置かれており、ニュー・ウェーヴの仕掛け人ならではの野心がうかがえる。
 ちなみに、表紙絵は1を題材にしており、アザラシに似た動物に乗っているのが主人公。ナメクジみたいなのは、「沼蛭」といって、新たな地球の覇者である。

 本書で試された方向性は、作者の70年代を代表する遠未来デカダン時間SF《時の果てのダンサー》シリーズに結実するが、わが国にほとんど紹介されていないのが残念だ。

蛇足
 3の題名は、のちにムアコックが組む3人組ロック・バンドの名前にも使われた。
 4は若書きの寓話だが、のちに長篇化された。(2013年7月5日)


2013.05.23 Thu » 『パンゲアの狩人たち』

【前書き】
 以下は2007年4月15日に書いた記事である。誤解なきように。

 最近買った本のなかにスティーヴン・バクスターの第三短篇集 The Hunters of Pangaea (NESFA Press, 2004) がある。

 版元はファン出版社の雄NESFAプレス。前にも書いたが、その母体はボストンを本拠地とする New England Science Fiction Association というファン・グループ。年に一回ボスコーンというSF大会を開いており、それに合わせてゲストの本を作ることで知られている(誤解がないように書いておくが、そうでない本もたくさん出している)。
 本書は41回めのボスコーンに合わせて作られた本で、ハードカヴァー限定1500部。当方が持っているのは1255番である。ちなみに、ジョン・G/クレイマー&キャスリン・クレイマーの序文つき。

2007-4-15(Hunters of Pangae)

 本書には18篇の中短篇と5篇のエッセイがおさめられている。ちなみに、すべて未訳である(追記1参照)。
 いまのところ読んだのは、サイモン・ブラッドショウとの共作 Prospero One (1996)だけ。これはバクスター得意の改変歴史宇宙開発もので、イギリス初の有人衛星打ち上げを描いている。表題はじっさいに計画されたが幻に終わったイギリスの有人衛星の名前。管制室でアーサー・C・クラークが大喜びする場面があるのが印象的だ。

 正直いって、小説よりはエッセイのほうに心惹かれる。とりわけ「ハーフ・タイムの歴史――SFにおけるサッカー」というのは面白そうだ。そのうち読んでみよう(追記2参照)。(2007年4月15日)

【追記1】
 この後「慣性調査装置をめぐる事件」という中篇が、マイク・アシュリー編のアンソロジー『シャーロック・ホームズの大冒険 下』(原書房、2009)に訳出された。

【追記2】
 本書はバクスターの関心領域を網羅するスクラップ・ブック的作品集だった。つまり、長篇執筆の過程で生まれた派生作品や、その調査の結果を活かしたエッセイがおさめられているのだ。

 エッセイのなかでは「タイム・マシン」、「火星」、「サッカー」を主題にした3篇がとりわけ面白い。バクスターのファン気質がいい方に出ていて、実作をあげて楽しそうに論評している。
 
 表題作は、知能を進化させた恐竜がいて、槍を使って狩りをしていたという話。長篇 Evolution から派生した作品とのこと。
 《マンモス》三部作から派生した作品“Behold New Behemoth”も興味深い。西部開拓時代までマンモスが生き残っていたという話である。
 あとはSFミステリから、H・G・ウェルズ作品のパスティーシュ、ウェルズ本人が登場するノンSF、ファンタシー連作までと幅広いが、上記を超えるものはなかった。


2013.05.22 Wed » 『大航海』

【承前】
 バクスターの名誉のために傑作を紹介しておこう。Voyage (Harper Collins, 1997) である。

2007-3-3(Voyage)

 簡単にいえば、改変歴史上の世界における宇宙開発もの。
 歴史の分岐点は1963年。ジョン・F・ケネディがダラスで狙撃されたが、一命をとりとめたことで歴史が変わり、NASAの宇宙開発が順調に進展して、1980年代に初の有人火星探査が行われる。その過程を迫真の筆致で描いた擬似ノンフィクション・ノヴェルだ。

 バクスターはこの作品を書くにあたって、トム・ウルフの『ザ・ライトスタッフ』やアンドルー・チェイキンの『人類、月に立つ』を徹底的に研究したようだ。その成果は如実に出ていて、従来の作品とはまったくちがった文体を手に入れている。本書の魅力は、この乾いたなかにも詩情をただよわせる文体に負うところが多い。
 
 だが、それ以上に魅力的なのは、宇宙開発に関するディテールだ。圧倒的な情報量で「あり得たかもしれない有人火星飛行」を克明に描いている。知らない人が読んだら、本物のノンフィクションと勘違いするのではないだろうか。

 主軸となる人間ドラマも秀逸。通俗的といえば通俗的だが、技術用語や数字が氾濫するストーリーなので、ちょっとクサイくらいほうがいいのだろう。男性優位のNASAで奮闘する女性地質学者(の宇宙飛行士)、典型的なテスト・パイロットである男性宇宙飛行士。ナチの強制収容所で生き残ったロケット技術者。この3人の人生が、火星探査とのかかわりで詳述されていく。
 
 この本は出た直後にリーディングで読んだ。あまりにも感激したので、すぐにレジュメを出して、ぜひ邦訳を出したいといった。そうしたら「ウチではそんなものは出しません」といわれたのだった。
 
 もっとも、いまになって考えると、その判断は妥当だったのかもしれない。
 たしかに、これは読者を選ぶ本だ。NERVAという略語を見て、「おおー!」と興奮できる人間がどれだけいるか。ここに書かれた歴史と現実の歴史の微妙な差異を見きわめ、ニヤニヤできる人間がどれだけいるか。しかも邦訳して1500枚近い大作。なるほど、おおかたの読者には、労多くして実り少なしの本になってしまうだろう。未訳のままで正解ということか。(2007年3月3日)

2013.05.21 Tue » 『位相宇宙』

【承前】
 バクスターの第二短篇集 Phase Space (Voyager, 2002) を読みおわった。ちなみに、当方が持っているのは例によって翌年に出たペーパーバック版。ハードカヴァーの版下をそのまま縮小したらしく、活字が恐ろしく小さくてまいった。この形でも426ページもあるので、字組みを変えたら500ページを超えてしまうのだろうが、それにしても……。

2007-3-1(Phase Space)

 本書には1997年から2002年にかけて発表された25篇の作品が収録されている。邦訳があるのは「グラスアース・インク」、「軍用機」、「シーナ5」、「氷原のナイトドーン」、「避難所」、「重力金庫の記憶」の6篇である。
 じつは多元宇宙をテーマにした《マニフォールド》シリーズの外伝ということになっているのだが、その説明をすると長くなるので省略。

 周知のとおり、バクスターは近年ものすごい量の作品を書いている。長篇を年に二、三冊出すうえに、短篇を毎月のように発表しているのだ。これで筆が荒れないわけがなく、濫作のそしりはまぬがれないだろう。
 皮肉なことに小説技術が向上したことが裏目に出ている。ワン・アイデアをテクニックだけで30枚の短篇に仕立てられるようになったからだ。しかし、テクニックがひとつしかないので、作品の印象が似通ってしまう。雑誌やアンソロジーで1篇だけ読む分にはいいのだが、まとめて読むと拷問に近い。

 未訳作品のベスト3は、ステープルドニアンな宇宙小説と宇宙開発もののハイブリッド“Open Loops”と“Spindrift”、 破滅もの“Martian Autumn”だろうか。残りの作品も水準はクリアしているものが多いが、傑作はひとつもない。残念だ。(2007年3月1日)