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SFスキャナー・ダークリー

英米のSFや怪奇幻想文学の紹介。

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2013.02.28 Thu » 『すばらしい新語世界』

 ときどき行く洋古書店が全品半額セールをやっていたので、ついつい買いこんでしまった。こういう機会でなければ買わない本ばかり。バーゲン・セールに群がる人たちのことをちっとも笑えないのである。

 そのうちの1冊が Brave New Words (Oxford University Press, 2007) 。題名の最後が World ではなく、Words であることが示すように、これはSF用語の辞書。小規模なSF用語集なら掃いて捨てるほどあるが、本書は大判ハードカヴァーで350ページ近い大冊。見出し、定義、用例(古い順に複数)と、形式も完璧にととのっている。ちなみにジーン・ウルフの序文つき。

2009-8-14 (Brave New)

 編者はジェフ・プルチャーという人だが、略歴を見ると学者ではないらしい。ということは趣味が高じてこんなものを作ったのか。世の中には奇特な人がいるものだ。

 The Stars My Definition という洒落た題名の序文によると、SFの辞書を作っていると聞かされた人の反応は、たいていふたつに分かれるそうだ。ひとつは「たくさんSFをお読みなんですねえ」と感心するか呆れるタイプ。もうひとつは、どの言葉が載っているのか知りたがるタイプ。
 後者については、熱心なファンなら“ansible”、もっとふつうの読者なら“cyberspace“、“grok”、“tardis”をあげることが多いらしい。

 試みにその“ansible”を引いてみると、アーシュラ・K・ル・グインの造語と注記したあと、どんな距離でも瞬時にして通信を可能にする装置という定義が載っている。そして用例として

1966年 ル・グィン『ロカノンの世界』
1977年 O・S・カード「エンダーのゲーム」(短篇版)
1988年 V・ヴィンジ Blabber
1995年 E・ムーン Winning Colors
2004年 I・スチュアート&J・コーヘン Heaven

からの引用が掲載されている。つまり、ル・グィンの造語が一般化していったことがきちんと跡づけられているわけだが、調査にどれだけの手間暇をかけたのか。想像するだけで気が遠くなる。いやはや、頭が下がるとはこのことだ。(2009年8月14日)


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2013.02.27 Wed » 愉快な広告

 しばらく前に手に入れた本に、マンリー・ウェイド・ウェルマンの Battle in the Dawn (Paizo, 2011) がある。
 この本に関してはいずれ詳しく書くだろうが、今回とりあげたいのは、同書の巻末広告だ。

2012-9-12(Battle)

 パルプ・マガジンの現物をご覧になった人は知っているだろうが、新案特許商品をはじめとして、なにやら怪しげな広告がたくさん載っている。上に掲げた図版はそれを模したもので、パイゾが出している叢書《プラネット・ストーリーズ》の宣伝になっている。

 面白いのは、似顔絵つきで証言している人物が、実在・虚構をとり混ぜたSF関係者になっていること。左上から順にリストアップしてみよう――

1 アレグザンダー・ブレイド (ニューヨーク州ニューヨーク市)
2 S・M・テネショウ (マサチューセッツ州ボストン)
3 カーティス・ニュートン機長 (カリフォルニア州ヨーバ・リンダ、愛国航空)
4 ディック・オウリンスン (ウィスコンシン州レイク・ジェネヴァ)
5 N・W・スミス ニューヨーク州スケネクタディ)
6 マシュー・カース (火星、カホラ)
7 ウィル・ガース (イリノイ州シカゴ)

 1と2と7はいわゆるハウスネーム。出版社が所有しているペンネームで、いろいろな作家がこの名前を使って雑誌に作品を発表した。
 どうしてそんなことになったかというと、パルプ・マガジンの場合、カラー印刷の表紙を数カ月分まとめて刷るため、先に小説の題名とハウスネームが決まることが多かったからだ。したがって、表紙絵や、ときには先に発表された惹句や粗筋に合わせて書けそうな作家に白羽の矢が立ち、じっさいの小説を書かせたわけだ。
 ロバート・シルヴァーバーグの証言によると、一部の出版社では、特定の子飼い作家たちが複数のペンネームやハウスネームを駆使して誌面を埋めており、新規参入の余地はないに等しかったという。

 3と5と6はSF小説の主人公・3と5は説明するまでもないだろう(機長は英語だとキャプテン)。6はリイ・ブラケットのさる長篇(邦訳あり)の主人公で、住所がヒントになっている。たぶんほかの住所にもいわれがあるのだろう。

 4は証言のなかで「自分はテーブルトップ・ゲーマーだ」といっているので、リチャード・オウリンスンというゲーム系のファンタシー作家だと思うが、自信はない。ご教示いただければさいわい。綴りは Dick Awlinson である。(2012年9月12日)




2013.02.26 Tue » 『独身者の機械』

 傑作がそう簡単には見つからない話をもうひとつ。
 〈ローカス〉の年度総括で、ある書評者が「まったく知らない作家がすごい本を出していた」と興奮気味に誉めていた。なんでもサイバーパンク仕立てのハードコア・ポルノで、SFのカッティング・エッジだという。
 それがM・クリスチャンという新人作家の The Bachelor Machine (Green Candy Press, 2003)という第一短篇集。表題はミシェル・カルージュの名著からのいただきだろう。これだけでインテリが作った本だとわかる。ひょとしたら、〈奇想コレクション〉あたりで使えるのでは、という下心もあって読んでみた。

2005-5-6 (machine)

 結論から先にいえばイマイチ。たしかにサイバーパンク仕立てのハードコア・ポルノで、ガジェットの使い方は堂に入っているし、ポルノとしても実用に耐える。卑語猥語と未来の造語らしきものが入り混じった文体も面白く、エロいシーンでも妙なユーモアがただよっている点も悪くない。

 だが、210ページの本に全19篇収録と書けばわかるとおり、1篇ずつが短すぎて、ポルノの部分ばかりが肥大して見えるのだ(まあ、そっちがお目当ての読者層が対象なのだろうが)。要するに、SFとしては食い足りない。
 
 たぶん同じレベルのSFポルノは、日本にもたくさんあるだろう。それなら、わざわざ訳すまでもない、という結論が出たのだった。(2005年5月6日)

2013.02.25 Mon » マッスン追悼――『時のまきびし』

【前書き】
 本日はスコットランド出身のSF作家デイヴィッド・I・マッスンの命日である。故人を偲んで、訃報に接した2007年3月9日に認めた日記を公開する。


 去る2月25日にデイヴィッド・I・マッスンが亡くなったそうだ。享年91。合掌。

 追悼の意味をこめて、本棚からマッスンの本を引っぱりだしてきた。唯一の著書 The Caltraps of Time (Faber & Faber, 1968) である。ただし、当方が持っているのは、76年にニュー・イングリッシュ・ライブラリーから出たペーパーバック版。オールディスとハリスンが顧問を務めていた〈SFの巨匠〉シリーズの一冊である(追記1参照)。

2007-3-9(The Caltraps of Time)

 SFにおける短篇の重要性を説いたハリイ・ハリスンの序文につづいて、7篇の短篇が収録されている。目次を簡略化して書き写しておこう。例によって発表年と推定枚数を付す――

1 Lost Ground  '66 (55)
2 Not So Certain  '67 (25)
3 Mouth of Hell  '66 (25)
4 二代之間男  '66 (80)
5 The Transfinite Choice  '66 (30)
6 Psychosmosis  '66 (25)
7 旅人の憩い  '65 (40)

 ちなみに、発表誌はすべて〈ニュー・ワールズ〉だ。

 さて、マッスンといえば、ニュー・ウェ-ヴ運動華やかりしころ、技巧的な短篇で読者をうならせた作家というイメージがあると思う。邦訳された2篇に関しては、まさにそのとおりなのだが、残りの作品は正直いって一枚落ちる。

 マッスンの作品は、典型的な「古い酒を新しい革袋」に盛るタイプ。つまり、割合ありふれたSF的アイデアを斬新な形式や、凝りに凝った文体に乗せるわけだ。
 その好例が、タイム・マシンによって1693年から1964年へやってきた男の目を通して、現代を描いた4だろう。アイデアだけとれば、エドモンド・ハミルトンの「未来を見た男」の二番煎じだが、17世紀の英語を模した擬古文を用いることで、絶大な異化効果をあげている(追記2参照)。
 デビュー作である7も、時間伸張/圧縮というアイデアそのものを具現した文体がみごと。

 そのいっぽうで、アイデアをひねくりまわすだけで終わってしまった作品もある。たとえば2は異星人の言語をあつかった作品だが、ストーリーというようなものはなく、大半が講義のような形になっている。だが、そこで語られるのは、Sshmiqh と Sshmeeqh ではまったく意味がちがうという類の説明なのだ。その根底にある法則を探っていく方向に話が進めば言語学SFの傑作になったのだろうが、そうはならないのである。

 5と6も、この種の音声言語学的な遊びに耽溺しすぎた感がある(Undrowda, hoo srigh のように変形しきった未来の英語を延々つづけるなど)。
 
 表紙絵の題材になった3は、地表にあいた途方もなく巨大な穴を探検する話だが、やはりストーリーといったものはなく、探検の描写がつづくだけ。しかも人名が変わっていて、'Afpeng とか Mehhtumm とか Ghuddup といった具合。とすると、異星人か異次元人の話かもしれないが、そのあたりはよくわからない。

 残る1は、情緒気候というアイデアと、パッチワーク化した時間というふたつのアイデアを核にしている。だが、このふたつはうまく絡みあっていない。

 というわけで、傑作はそう簡単にはころがっていないのである。(2007年3月9日)

【追記1】
 3篇を増補し、クリストファー・プリーストの新たな序文を付した新版が2012年にゴランツから出た。マッスンの書いたSFは、これですべて網羅された。

【追記2】
 浅倉久志氏は、『ニュー・ワールズ傑作選 No.1』(ハヤカワ・SF・シリーズ、1971)に収録されたこの作品を訳すに当たって、明治期の小説の文体を採用した。冒頭を引く。ただし、うちのワープロでは処理できないので、仮名遣いを一部変えたり、正字を略字に変えたりしたことをお断りしておく――

「……私は其時{そのとき}偶々{たまたま}、往来から一寸眼に附かぬ拱門{くぐり}の蔭に立在{たたず}んで居たのですが、筋向ひの納屋と自分の眼との眞中邊{あたり}に何か目眩{まぶ}しい光を放つ物が有る。と視{み}る間{ま}に、其幻{まぼろし}がドンドン濃くなつて、頓{やが}て納屋の前の小空地{こあきち}に、白ぽい色をした、轅{ながえ}の無い轎{かご}のやうな物が現れました。」

 たいへんな離れ業なのだが、浅倉さんご本人はこの翻訳を若気の至りとして低く評価されていた。はじめてお目にかかったときそう聞いたので、強く印象に残っている。
 いまにして思えば、「翻訳が介在していることを意識させないほど日本語として自然な訳文を作る」という浅倉さんの姿勢に反するからだろう。訳者の得意げな顔が透けて見えるような訳文は一級ではない、と浅倉さんはおっしゃりたかったのではないだろうか。

【追記3】
 〈SFマガジン〉1969年4月号の本家「SFスキャナー」では、伊藤典夫氏が本書を簡単に紹介されている。そのとき掲げられたハードカヴァー版の書影は、表紙にエッシャーの絵をあしらった瀟洒なものだった。パルプSFめいたNEL版とは大ちがいで、じつはNEL版を入手したときは唖然とした。

2013.02.24 Sun » 『地球の頭脳たち』

 昨日の記事にまちがいがあったので、訂正する。

 ハヤカワ文庫から『ノパルガース』という題名の本が出ると聞いて、単純に Nopalgarth : Three Complete Npvels (DAW, 1980) の翻訳だと思ったのだが、そうではないとのこと。Nopalgarth は短い長篇を三つ収録した合本なのだが、その表題作だけの翻訳だという。

2009-7-12(Nopalgarth)

 じつは Nopalgarth という作品は、この本にはいる前は The Brains of Earth という題名で世に出ていた。初版は1966年に出たエースのダブルだが、あいにく所有していない。当方がほかに持っている版は、短篇集 The Worlds of Jack Vance (Ace, 1973) 収録ヴァージョンだけである。
 やっぱりエース版がほしいなあ。

 下の画像はFantastic fictionから借りてきたもの。1975年にデニス・ドブスンから出たイギリス版ハードカヴァーだそうだ。当方もはじめて見たので貼っておく。この絵の意味は、作品を読むとわかる。

2009-7-12(Brains)

(2009年7月12日)


2013.02.23 Sat » 『宇宙の食人植物/イスズムの館』

【前書き】
 以下は2009年7月11日に書いた記事である。誤解なきように。


 蔵書自慢。ものはジャック・ヴァンスの Son of the Tree と The Houses of Iszm の合本である。悪名高いエースのダブル・ブックとして1964年に刊行されたもので、F-265 という番号が付いている。表紙絵はジャック・ゴーハンだが、見てのとおり、まったくやる気がない。

2009-7-11(Son of)2009-7-11(House)

 どちらも典型的なヴァンス流スペースオペラ。つまり、西部劇ではなくエスピオナージュ風味が濃厚な点に特徴がある。近く翻訳が出るようなので、内容の紹介は割愛しよう。8月にハヤカワ文庫SFから出る『ノパルガース』に収録されているはずである(追記1参照)。

 ちなみに前者はダン・シモンズ《ハイペリオン》2部作の霊感源のひとつだと思しい。
 このショート・ノヴェルは「宇宙の食人植物」という題名で邦訳されたことがある。久保書店のSFノベルスにジョン・W・キャンベル・ジュニア『太陽系の危機』という本があるのだが、そこにカップリングで収録されているのだ。ただし、表紙や扉にはその旨が記載されていない。
 同様のケースはほかにもあり(追記2参照)、久保書店の編集部はなにを考えていたのか理解に苦しむ。(2009年7月11日)

【追記1】
 これは当方の勘違いだった。『ノパルガース』という本が出ると聞いて、Nopalgarth: Three Complete Novels の翻訳だと思ったのだが、そうではなかったのだ。くわしいことは、つぎの記事で説明する。

【追記2】
 アラン・E・ナース『謎の恒星間航法』にアレグザンダー・ブレイドの「黒い惑星が」、マイクル・コリンズの『ルーカン戦争』にリイ・ブラケットの「アステラーの死のベール」が、それぞれ併録されている。

2013.02.22 Fri » 『緑魔術』

 ヴァンスの傑作集的意味合いの本をもう1冊。Green Magic: The Fantasy Realms of Jack Vance (Underwood-Miller, 1979) がそれだ。ただし、当方が持っているのは、88年にトアから出たペーパーバック版。ロドニー・マシューズの表紙絵が美しいが、愚劣なデザインでだいなしになっているのが惜しい。

2009-7-26(Green)

 ポール・アンダースンの前書き、ジョン・シャーリーの序文つき。
 収録作はつぎのとおり――

1 緑魔術
2 奇跡なす者たち
3 月の蛾
4 The Mitr
5 無因果世界
6 エルンの海
7 The Pilgrims  《滅びゆく地球/キューゲル》
8 The Secret
9 無宿者ライアーン 《滅びゆく地球》

 副題からわかるとおり、ファンタシー傑作選なのだが、見てのとおり、SF傑作選と大差ない。まあ、ヴァンスの場合、本質的にファンタシー作家であり、宇宙船や超能力が出てくるからSFに分類されているだけなので、当然といえば当然だが。
 やっぱり「月の蛾」がはいっている。

 未訳について触れておくと、4は異郷の情景描写だけで構成された実験的な作品(追記参照)。7は《キューゲル》シリーズのなかでも一、二を争う痛快篇。8は南の島を舞台に、不気味な風習を描いた民俗学的ファンタシー。
 これはいい短篇集だ。このまま邦訳を出したいくらい。(2009年7月26日)

【追記】
 のちにヴァンス傑作選『奇跡なす者たち』(国書刊行会、2011)に訳出された。訳題は「ミトル」である。

2013.02.21 Thu » 『ジャック・ヴァンス傑作選』

 ヴァンスの傑作選といえば、そのものズバリの題名の本が出ている。The Best of Jack Vance (Pocket,1976) がそれ。ヴァンスの前書き、バリー・N・マルツバーグの序文つきだが、どちらも短すぎて読み応えはない。ただし、各篇に作者の覚え書きがついていて、そちらは面白い。

2009-7-25(Best of Vance)

 目次はつぎのとおり。例によって発表年と推定枚数を付す――

1 光子帆船25号 '62 (70)
2 Ullward's Retreat '58 (40)
3 最後の城 '66 (170)
4 アバークロンビー・ステーション '52 (180)
5 月の蛾 '61 (100)
6 Rumfuddle '73 (160)

 傑作選とはいいながら、The Worlds of Jack Vance との重複を避けたのか、いまひとつ物足りないラインナップ。
 ジェリー・ヒューエット&ダリル・F・マレットの書誌 The Work of Jack Vance の記述によれば、「ココドの戦士」と“Alfred's Ark”の収録が予定されていたのだが、出版社の意向で割愛されたとのこと。
 それでも「月の蛾」は収録されている。

 未訳作品について触れておくと、2は都市化の弊害をテーマにしたいかにも50年代という風刺SF。Author's Choice という作者自選作アンソロジー・シリーズにヴァンスがこの作品を選んでいて驚いたことがある。というのも、あまりヴァンスらしくないし、出来もよくないからだ。出来の悪い子ほど可愛いのか、それとも、ほかに再録の機会がない作品で稼ごうとしたのか。作者自選というのは、どうも信用が置けない。

 6は、ひょっとするとダン・シモンズ《ハイペリオン》シリーズの霊感源のひとつかもしれない。
 小型の超空間ゲート(要するに「どこでもドア」ですね)が実用化され、人類が宇宙全体に散らばっている未来。主人公ギルバート・デュレイは、自然のままの惑星を私有し、家族4人だけで牧歌的な生活を送っている。あるとき、仕事を終えて地球から自分の星へ帰ろうとすると、すべてのゲートが閉ざされているのに気づく。いったいだれの仕業なのか? 惑星に孤立した妻エリザベスと娘3人は無事なのか?
 というわけで、主人公が右往左往しながら真相を探っていくミステリ仕立てのノヴェラ。超空間ゲートというガジェットがはらむ可能性を追求した本格SFだが、最後に明かされる真相には唖然とする。じつは主人公やその妻の名前が伏線になっているのだが、それに気づく読者はいないだろう。(2009年7月25日)


2013.02.20 Wed » 「五つの月が昇るとき」のこと

【承前】
 ジャック・ヴァンスの作品を訳したくて、Fantasmas and Magics 所収の未訳作品のなかでいちばん面白く思えた When the Five Moons Rise (1954) という短篇を訳すことにした。邦訳して40枚弱の短篇。1985年も終わりに近いころである。

 じつは発表のあてがあった。といっても、もちろんファンジン・レヴェルの話だが。当時、米村秀雄氏の肝いりでTHATTA文庫(発行はG.E.O.名義)というのが出ており、そこに投稿するつもりだったのだ。

 ご存じの方も多いだろうが、関西の有力SFファン・グループが〈THATTA〉というファンジンを出しており、そこの分派活動としてはじまったのが同叢書。20ページ前後のペラペラの小冊子を文庫サイズで刊行するというもので、最終的に50冊を超えた。短篇ばかりでなく、長篇も細切れ分冊で刊行するという非常に意欲的な叢書であった(ただし、完結した作品はすくなかった)。

 当方は米村氏と面識があり、同じヴァンス・ファンということで、ヴァンスを訳したら刊行してもらえることになっていたのだ。
 こうして出たのが「五つの月が昇るとき」である。上下分冊で、整理番号は27と30。発行日はそれぞれ「昭和61年1月19日」と「昭和61年2月16日」となっている。

2009-7-21(Five Moon 1)2009-7-21(Five Moon 2)

 表紙の絵は、おそらく米村氏本人の手になるもの。

 じつはこの訳が〈SFマガジン〉に転載されることになり、当方にとって新しい道が開けるのだが、長くなるのでその話はまたの機会に。(2009年7月21日)

【追記】
 すでに記したように、浅倉久志先生に添削してもらった訳稿が、〈SFマガジン〉1987年3月号に掲載された。これが当方のデビュー作ということになる。
 もっとも、出来のほうは芳しくなく、のちに一から訳しなおして拙編のアンソロジー『影が行く――ホラーSF傑作選』(創元SF文庫、2000)に収録した。このとき、浅倉さんの教えをようやく理解できた気がする。

2013.02.19 Tue » 『幻影と魔法』

 前の記事でとりあげた作品集は、Fantasms and Magics: A Science Fiction Adventure. (Mayflower, 1978) としてイギリス版が出たが、題名から察しのつくとおり、2篇を削除した簡約版である。

2009-7-20(Fantasm)

 収録作品はつぎのとおり――「奇跡なす者たち」、「五つの月が昇るとき」、“Noise”、「新しい元首」、「スフィアーの求道者ガイアル」、「無因果世界」(追記参照)

 さて、この本は思い出深い本である。というのも、当方が最初に手に入れたヴァンスの本だからだ。記憶は定かではないが、神保町の三省堂で買ったのだと思う。
 とはいえ、当時の語学力ではまるっきり歯が立たず、ちゃんと読み通したのは、それから何年もたってからだった。そのころには「奇跡なす者たち」が、酒井昭伸氏の麗訳で読めるようになっていたので、英語で読んだ部分は半分に満たないのだが。

 苦労して読んだのに、当時はまだ邦訳のなかった「新しい元首」などは、さっぱり面白いと思えず失望した。浅倉久志先生と話す機会があったとき、ヴァンスの話題になってこの作品を酷評したら、浅倉先生はお好きだとのことで、大いにあせったものだった。

 ともあれ、ヴァンスの作品を訳したくて、なんとかなりそうな短篇を訳すことにした。それが「五つの月が昇るとき」なのだが、その話はつぎの岩につづく。(2009年7月20日)

【追記】
 前の記事で書いたとおり、“Noise”も「音」として訳出された。

2013.02.18 Mon » 『八つの幻影と魔法』

 ヴァンスがらみの話をつづける。

 ヴァンス傑作集的な意味合いの本に Eight Fantasms and Magics (Macmillan, 1969) というのがある。もっとも、当方が持っているのは、例によって1970年にコリアーから出たペーパーバックだが。

2009-7-18 (Eight)

 短い「まえがき」につづき、以下の作品が収録されている。例によって発表年と推定枚数を付す――

1 奇跡なす者たち '58 (205)
2 五つの月が昇るとき '54 (40)
3 Telek '52 (185)
4 Noise '52 (35)
5 新しい元首 '51 (70)
6 Cil '66 (70) *《滅びゆく地球/キューゲル》
7 スフィアーの求道者ガイアル '50 (120) *《滅びゆく地球》
8 無因果世界 '57 (25)

 未訳のうち3は、分類すれば超能力ものということになるだろう。表題のテレックはテレキネシスの略で、この場合は超能力者を意味する。彼らが貴族階級として君臨している未来を舞台に、その圧政を打破しようとする者たちの活躍が描かれる。
 じつはヴァンスの長篇はこのパターンが多い。つまり、厳格な階級制度が敷かれている未来社会を舞台にした革命の物語。この作品は、それらの原型と考えていいだろう。とはいえ、当方はこの系統にあまり魅力を感じない。

 4は異星に不時着した宇宙船の話。形はSFだが、内容は純然たるフェアリー・テールで、ヴァンスが手の内を見せた感のある短篇(追記参照)。
 6は《キューゲル》ものの痛快篇。

 簡単にいえば、ヴァンス作品のショーケース的な作品集である。内容はかなりいい。(2009年7月18日)

【追記】
 この後ヴァンス傑作集『奇跡なす者たち』(国書刊行会、2011)に本邦初訳作品として収録された。訳題は「音」である。


2013.02.17 Sun » 『ジャック・ヴァンスのいろいろな世界』

【承前】
 ジャック・ヴァンスの短篇集 The Worlds of Jack Vance (Ace, 1973) を紹介しよう。じつは、畏れ多くも浅倉久志氏からいただいた本なのだ。

2009-7-17(Worlds of Vance)

 話は20年ほど前にさかのぼる。あるとき浅倉さんから電話があって、今夜衛星放送でやる映画、ヴィスコンティ監督の「山猫」を録画してくれないかと頼まれた。あとでわかったのだが、浅倉さんは当時ポーリン・ケイルの映画評論集『映画辛口案内』(晶文社)を翻訳されていて、そのなかでこの映画がとりあげられていたのだ。いまとちがってソフトが手にはいりにくかったのだが、浅倉さんは論じられる映画の現物を極力観て(あるいは観直して)おこうとされていたのだった。

 ともあれ、偉大な先輩の役に立つのがうれしくて、録画したVHSテープを翌日お送りしたら、そのお礼ということでこの本をいただいたのだ。もちろん、当方がヴァンス・ファンだと知ってくださっていたからだ。ああ、ヴァンス・ファンでいてよかった。

 目次はつぎのとおり――

保護色
月の蛾
新しい元首
悪魔のいる惑星
無因果世界
ココドの戦士  *《マグナス・リドルフ》
The King of Thieves  *同上
とどめの一撃  *同上
ノパルガース

 一見、ヴァンス傑作選のように思えるが、じつはエースのダブルで出た The World Between and Other Stories (追記参照)と The Brains of Earth を合わせ、宇宙探偵《マグナス・リドルフ》シリーズから3篇選んできて加えただけの安易な編集。本書のための序文もついてないし、手抜きの感は否めない。もっとも、こういう文句をいう読者は当方くらいかもしれないが。

 その代わり質は高くて、いずれもカラフルなヴァンス流宇宙小説。とりわけ「月の蛾」、「新しい元首」、「無因果世界」あたりは、ヴァンス傑作選に指定席を約束されている。国書刊行会から刊行が予定されている作品集『奇跡なす者たち』にもはいると睨んでいるのだが、予想は当たるだろうか(追記2参照)。(2009年7月17日)

【追記】
 このダブル・ブックについては2012年4月18日の記事で紹介した。

【追記2】
 予想どおり「月の蛾」と「無因果世界」は収録された。「保護色」もはいった。
 聞くところによると、「新しい元首」は、ほかの本にはいる予定があったので見送られたとのこと。しかし、その本はまだ出ていない。関係者には猛省をうながしたい。

2013.02.16 Sat » 『ジャック・ヴァンスの作品』

 浅倉久志先生からジャック・ヴァンスの書誌をいただいたことがある。ジェリー・ヒューエット&ダリル・F・マレット編 The Work of Jack Vance (Borgo Press, 1994) という本だが、ちょっとそのことを書きたい。

 あるとき浅倉さんから大きめの書籍小包が届いた。訳者謹呈本なら出版社から届くのがふつうだが、これはご本人から。なんだろうと思って封をあけたら、ヴァンスの書誌がはいっていたのである。

2013-2-14 (Wok)

 浅倉さんのメッセージが添えられていて、それによると「ヴァンス・ファンのみなさまにさしあげようと思って注文した」そうで、わざわざ贈ってくださったのだ。しかも「酒井さんと白石さんにもお送りしました」と書いてある。もちろん、酒井さんは酒井昭伸氏、白石さんは白石朗氏のことだ。

 これを読んで、当方は天にも昇る心地になった。なぜなら、浅倉さんが当方をヴァンス・ファン仲間として認めてくださり、敬愛する先輩方と同列に置いてくれたのだから。うれしくてうれしくて、本を持って部屋のなかを歩きまわったのを思いだす。

 その酒井、白石、当方が国書刊行会の《ヴァンス・コレクション》を担当することになったのは、奇遇というべきか、それとも必然というべきか。浅倉さんの遺志を継ぐといえば烏滸がましいが、この企画を成功させることが浅倉さんへの恩返しになるのだから、あらためて、やる気が湧いてくる。

 おっと、本の紹介を忘れるところだった。
 これはボルゴ・プレスが出していた《現代作家書誌》シリーズの第29巻。大判トレードペーパー(ほかにケースつきの愛蔵版や、ハードカヴァー版があるらしい)で、約300ページ。ロバート・シルヴァーバーグの序文、ティム・アンダーウッドの跋文つきである。

 内容は大きく14部に分かれていて、「書籍」、「短篇」、「詩歌」、「雑文」、「その他のメディア」といった部門ごとに詳細きわまりないデータが羅列される。
 ヴァンスの書誌としては、ダニエル・J・H・レヴァック&デイヴィッド・アイルランド編の Fantasms (Underwood-Miller, 1978) というすごい本があるので、それを補完したうえで、あえて差別化を図った節がある。

 たとえば「地図と素描」というセクションがあって、ヴァンスが創作メモの一環として描いた地図やスケッチがリスト・アップされている。もちろん、未発表のものばかりだ。この一事をもってして、本書がいかにマニアックなものか、おわかりだろう。「誤ってヴァンス作とされた作品」のリストまであり、4作があげられている。

 あるいは、書かれずに終わったミステリ長篇の梗概が付録として載っている。これが粗筋のレヴェルを超えて、会話まで書きこまれた草稿。ちょっと驚いた。

 図版満載のレヴァック&アイルランドの書誌とは対照的に、図版が1枚も載っていない無愛想な本だが、ヴァンス・ファンにとっては宝物庫のような書誌である。この本を贈ってくださった浅倉さんに、あらためて感謝を捧げたい。(2013年2月月14日)

2013.02.15 Fri » 州浜昌宏のこと

 浅倉久志氏が、伊藤典夫氏とふたりで〈SFマガジン〉の社外ブレーンを永らく務められていたことは、わりに知られていると思う。
 翻訳掲載する作品の選択や、作品解説の執筆を行なわれていたわけだが、あまり知られていないのは、おふたりが新人翻訳家の訳に添削をされていたことだ。じつは当方も添削してもらったひとりで、浅倉さんに見ていただいた。その原稿は、いまでも宝物として大事にとってある。

 さて、新人の原稿に朱がはいりすぎて、実質的な共訳になってしまった場合は、ペンネームで掲載された。浅倉さんの場合は、州浜昌宏という名義が使われた(伊藤氏の場合は鵜飼裕章)。この名義の翻訳は、SFマガジンに3篇掲載されている――

1982-11「さあ、みんなで眠ろう」アヴラム・デイヴィッドスン
1983-1「天国にあと一歩」ギャリー・キルワース
1984-7「転覆」マック・レナルズ

 デイヴィッドスンの作品は、短篇集『どんがらがん』(河出書房新社、2005)が出るとき、浅倉さんが訳しなおし、浅倉名義で発表された。

 ところで、州浜昌宏のいわれはなんだろう。これもなにかのもじりだろうか。ご存じの方がいれば、ぜひ教えてください。(2010年3月3日)

2013.02.14 Thu » 浅倉久志先生ご命日

【前書き】
 本日はSF翻訳の偉大な先達、浅倉久志先生のご命日だ。故人を偲んで、先生が逝去された当時の日記を公開する。


 みなさまご存じのとおり、翻訳家の浅倉久志先生が2010年2月14日に永眠された。今日はそのお通夜に行ってきた。

 故人の強い遺志ということで、本当に少人数のお通夜。自分なんか出席していいのかと思ったが、どうしても最後のお別れをいいたかったのだ。
 昨年の夏から体調をかなり悪くされていることは聞いていて、お見舞いに行きたかったのだが、本人が固辞されているそうで、まわりから止められていた。おりしも編纂した〈ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク〉や『時の娘』や『跳躍者の時空』ですばらしい訳文を提供していただいていた時期(追記1参照)。いちど会ってお礼をいわなければならないと思っていた。だから、ものすごく悔いが残っている。

 当方にとって浅倉さんは、偉大な先輩であると同時に、デビューのときに訳稿を添削してくださった大恩人である。アンソロジストとして活動をはじめてからは、どれだけお世話になったか筆舌につくしがたい。どれほど感謝してもしきれないのだ。
 
 浅倉さんとの思い出については、日をあらためて書く(追記2参照)。いまはただひとこと――安らかにお眠りください。(2010年2月17日)


 昨日は浅倉久志先生の告別式に参列してきた。

 天も涙を流しているのか、本格的な降雪。鉄道各線に遅れが出て、午前9時の開始に間に合うかハラハラしたが、どうにか無事に出席できた。

 前日にお別れをしたので、気持ちの整理はつけたつもりだったが、読経が終わって、僧侶が「これから火葬に付されると、この体はなくなります」という意味のことをいったとたん、目頭がカッと熱くなった。世の無常をこれほど痛切に感じたことはない。

 だが、浅倉さんの体がなくなっても、浅倉さんの翻訳がなくなるわけではない。それを伝えていくのが、残された者の使命だろう(追記3参照)。
 といっても、大げさなことではない。浅倉さんの翻訳を読みついで、そのすばらしさを表明すればいいだけの話。英米SFのファンなら、ふつうにやっていることだ。ある方が書いておられたが、浅倉さんの翻訳は「水や空気のようなもの」なのだから。

 行き帰りの電車のなかでは、浅倉さんが大好きだったジャック・ヴァンスの『竜を駆る種族』を読んでいた。浅倉さんの代表的な翻訳といえば、ディックやヴォネガットということになるのだろうが、当方にとってはヴァンスである。
 〈SFマガジン〉が400号記念で再録特集を組んだとき、当方は迷った末にヴァンスの「月の蛾」を推薦した。そのあと浅倉さんにお会いしたとき、「読み返したら、意外に面白かった」とおっしゃられたのをよく憶えている。そのとき当方は、「なにをいってるんですか。大傑作じゃないですか」と返したのだった。いま思うと、冷や汗が出てくる。

 そういう無礼なファンにも、浅倉さんは笑って対応してくださった。あれを見習わねば、といまさらながら思っている。(2010年2月19日)

【追記1】
 浅倉さんの最後の訳業は、〈ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク〉第3巻『メデューサとの出会い』(ハヤカワ文庫SF、2009)に収録された「無慈悲な空」という短篇だった。

【追記2】
 この後、当方は追悼文をふたつ書いた。ひとつは、浅倉先生の追悼特集を大々的に組んだ〈SFマガジン〉2010年8月号に寄せた「ユーモア・スケッチのこと」、もうひとつはファンジン〈科学魔界〉52号(2010年8月)に寄せた「浅倉さんのこと――追悼に代えて」である。

【追記3】
 いま編んでいるアンソロジーに浅倉さんの埋もれていた翻訳を収録する。ロバート・シルヴァーバーグの「マグワンプ4」という短篇で、〈SFマガジン〉1974年7月号に訳載されたきりだったもの。こうした単行本未収録作品を復活させるのが、当方にできる恩返しだと思っている。春に刊行予定だが、詳細は後日。

2013.02.13 Wed » 『TVAの落とし子』

 テリー・ビッスンの第四短篇集 TVA Baby (PM Press, 2011) を読んだ。2006年から09年にかけて発表された近作13篇が収録されている。

2012-10-5(TVA)

 ビッスンの近年の作品は、世界への絶望をにじませた苦いものになっているのだが、その傾向はますます顕著になっている。
 たとえば表題作は、ほとんど理由もなしに殺人をくり返しながら逃避行をつづける男の話。この男が「おれはTVAベイビーだ」と名乗るのが、題名の由来になっている。
 ちなみに、TVAベイビーとは、大恐慌時代にルーズヴェルト大統領が打った政策で、テネシー川のダム工事に北部からやってきた青年たちが、南部の女性とのあいだにもうけた子供たちのこと。ビッスン自身がTVAベイビーのひとりらしい。とすると、この主人公は作者のダークサイドなのか。

 “Pirates of the Somali Coast”は、ソマリアの海賊に襲われた豪華客船の話。この船に乗り合わせた少年が、母親と友人へ送るeメールを並べる形式で書かれており、冒険旅行を語るような明るい調子の母親宛メールと、海賊の残虐行為を赤裸々につづる暗い調子の友人宛メールが、事件を立体的に描きだす。

 “BYOB FAQ”は、商品に関するQ&Aの形式で書かれており、読み進めるうちに、暗澹たる未来のビジネスが見えてくる。「BYOB」とは“Build-Your-Own-Boyfriend ”の略であり、孤独な女性向けにボーイフレンドを売る商売。そのボーイフレンドは、アジアやアフリカの健康な青年。ただし、いっさいの記憶が消されており、買い手が自分好みに仕立てられるようになっている。志願制が建前で、その多くは貧困からぬけだそうとする者たちだ(受刑中の犯罪者も多い)。半年以内なら返品もきくというのが、買い手にとっては大きな魅力だそうだ。

 ほかの作品もこういう調子か、逆にセンチメンタルすぎるくらいセンチメンタルな作品。ビッスンも変わってしまったなあ、というのが偽らざる感想である。
 
 とはいえ、ひとつだけ大笑いできた作品がある。“Billy And the Circus Girl”だ。
 題名からわかるように、ビッスン版ナンセンス童話《ビリー》シリーズの1篇だが、シリーズを集成した単行本 Billy's Book (2009) への収録は見送られたといういわくつきの作品。理由は「子供向きではない」から。
 冒頭を訳してみよう。


 ビリーには小さなオチンチンがついていました。こすると、それは大きくなりました。そんなことがあるなんて、ビリーの理解している物理法則に反するように思えます。なのでビリーは科学の先生、ミスター・スマートに見せることにしました。
「これ見て」とビリーはいいました。

「どうして校長室へ来ることになったの?」校長先生のミセス・サットンがいいました。「ミスター・スマートは教えてくれないのよ」
「これを見せたんです」とビリー。「こすると大きくなる理由がわかりません」


 この調子でビリーはいろんな人にオチンチンを見せてまわり、騒ぎとビリーのオチンチンはますます大きくなっていく。とはいえ、サーカス・ガールのおかげで万事は丸くおさまるのだが、それがどういうことかは、みなさんのご想像にまかせよう。(2012年10月5日)




2013.02.12 Tue » 『ビリーの本』

【承前】
 PSパブリッシングの本をもう1冊。ものはテリー・ビッスンの連作短篇集 Billy's Book (PS Publishing, 2009)だ。

 本文88ページの薄いハードカヴァー。ジャケットつきの豪華版と、ジャケットのない普及版があるが、当方が持っているのは後者である。念のために書いておくと、版元はイギリスの小出版社で、薄手のハードカヴァーを精力的に出しているところ。本の値段が高いのでも有名である。

2010-7-18(Billy's Book)

 これはビリーという小学生の男の子を主人公にしたブラック・ユーモアたっぷりの童話。全部で13の短いお話がはいっていて、ビリーは宇宙人や恐竜を相手に悪戯ばかりしているが、たいていその何倍もひどい目にあう。ただし、天罰覿面ではなく、不条理なところがポイントで、両親をはじめとして、出てくるのはおかしな連中ばかりである。ちなみに3篇は本書のための書き下ろし。
 
 最近のビッスンは文体がスカスカになっていて、この本も例外ではないが、童話形式なのでそれがいいほうに作用している。なかなか面白い本だが、言葉遊びの要素が強いので、邦訳すれば魅力半減だろう。

 じつは、この本のことを書く気になったのは理由がある。つい最近アメリカ版(作品配列が一部異なる)が出たのだが、こちらはルーディ・ラッカーのイラスト入りなのだ。しかも、PDF版は無料配布という気前のよさ(追記参照)。とにかく、ラッカーのイラストは破壊力抜群。リンクを張っておくので、興味のある方はご覧になられたい。

http://www.rudyrucker.com/billysbook/

(2010年7月18日)

【追記】
 現在は無料配布をしていないようだ。くわしくは上記リンク作を参照のこと。


2013.02.11 Mon » 『謎の惑星』

【前書き】
 以下は2010年4月25日に書いた記事である。誤解なきように。


 7月に出る予定の本の初校を見終わった。テリー・ビッスンの短篇集である。
 前にも書いたが、ゲラを見る作業は本当にストレスがたまる。今回は「万が一(ということがある)」と「万一(にそなえて)」をどちらかに統一しろという指示があって呆れはてた。官僚的思考もここにきわまれり、という感じだ。

 こういうときは蔵書自慢。ものはテリー・ビッスンの Planet of Mystery (PS Publishing, 2008)だ。
 ジャケットつきの豪華版とジャケットなしの普及版、2種類ハードカヴァーが出ているが、当然ながら後者を買った。

2010-4-25(Planet)

 これは邦訳して230枚ほどのノヴェラを単行本化したもの。版元はイギリスの小出版社で、こういう形式の本をたくさん出している。その多くは書き下ろしで、意欲的な出版姿勢が高く評価されている。ただし、本書は2006年に〈F&SF〉に掲載された作品。

 ときは2077年、いましも人類初の有人金星着陸がおこなわれようとしていた。ホール船長とチャン機関士を乗せた中国アメリカ宇宙サーヴィスの着陸船は、分厚い金星の雲をぬけて地表をめざす。そこは太陽の光が届かないので永久に闇につつまれ、金属も溶ける高熱の支配する地獄のような世界――のはずだった。

 ところが、宇宙飛行士たちの目に映ったのは、光のあふれた平原で、植物らしきものが存在していた。そして着陸予定地点には、乾いた大地のかわりに水をたたえた池が広がっていたのだ。操船が間にあわず、着陸船は池にはまって沈没してしまう。
 
 からくも脱出したホールとチャンは、そこの空気が呼吸可能であることを知る。だが、驚く暇もなく、ケンタウルスそっくりの生物と短いチュニック姿の女戦士(アマゾン)たちに襲われ、捕虜にされてしまう。ふたりは城へ連れていかれるが、そこで待っていたのはアマゾンの女王と、11年前に行方不明になった金星探査ロボットだった……。

 ハードSF風の導入部から一転してパルプSF風の展開を見せる。明らかに往年のプラネタリー・ロマンスへのオマージュだが、正直いって冴えない。最近のビッスンの傾向だが、文章の密度が薄いのだ。すくなくとも、初期の短篇に見られたような味わい深い文章ではなく、事務的でスカスカの文章である。もしかするとノヴェライズをたくさん書いた弊害かもしれない。
 長めの作品を書こうとしたのだろうが、長篇用のプロットを組み立てられず、短篇を引きのばしただけに終わっている。

 ビッスンの長い作品は成功した例がすくない。例外は『世界の果てまで何マイル』と『赤い惑星への航海』だが、いずれもA地点からB地点への移動という単純なストーリーで、エピソードを数珠つなぎにした形式であり、複雑なプロットをそなえた作品ではない。本質的に短篇作家なのだろう。(2010年4月25日)

2013.02.10 Sun » 『とり残された左翼』

【前書き】
 以下は2010年4月5日に書いた記事である。誤解なきように。


 長かったトンネルをひとつ抜けた。7月に出る予定のテリー・ビッスン短篇集、その最後の訳稿がようやくあがったのだ。もちろん、本になるまでまだ諸々の作業が残っているが、とりあえず締め切りはクリアした。なにはともあれひと安心だ(追記1参照)。

 というわけで、この日のためにとってあったビッスンの最新刊を読んだ。The Left Left Behind (PM Press, 2009) である。

2010-4-5(The Left Left behind)

 聞いたことのない版元だが、2007年にできた新興の小出版社。政治色の強いカウンターカルチャー系の版元で、書籍や小冊子のほかにCD、DVD、Tシャツなどの制作・販売をおこなっているらしい。
 ビッスンも新左翼運動あがりなので、編集スタッフと意気投合したらしく、《歯に衣を着せない作家たち》という叢書の編集にあたることになった。政治的に物議をかもしそうなSF短篇に作家インタヴューを合わせた薄手の本を出していこうという企画。その1冊めが上記の本というわけだ。

 日本の四六版に近い版型で120ページあまりのソフトカヴァー。目次を簡略化して示す――

1 The Left Left Behind: “Let Their People Go!”
2 Specal Relativity
3 “Fried Green Tomatoes”*インタヴュー
4 Bibliography

 不勉強ゆえ全然知らなかったのだが、アメリカには The Left Behind シリーズという大ベストセラーが存在するらしい。キリスト教系の宗教ファンタシーで、ある日信仰に厚い人々が死を経ずして昇天し、残された人々が、キリストの再臨まで7年にわたってアンチ・キリストの圧政に服すという内容とのこと(追記2参照)。
 1はこれのパロディで、キリスト教原理主義の価値観を徹底的におちょくっているほか、イスラエルの対パレスチナ政策に諷刺の矛先を向けている。作者によると、おそらく後者が災いして、出版してくれるところがなかなか見つからなかったという問題作だ。
 抱腹絶倒のドタバタで、筒井康隆の諸作と似た感じだが、アメリカの事情に通じていないとギャグが理解できない憾みがある。当方にも理解しきれたかどうか自信がない。
 ちなみに題名は駄洒落。左翼と内容に直接の関係はない。こういうギャグは翻訳不能なのだよ。今回の翻訳作業でもさんざん悩まされた。

 2は戯曲。これも政治色の強い諷刺作品で、アインシュタイン、ローブスン、フーヴァーの3人がブッシュ政権下の現代アメリカによみがえる。やはりドタバタだが、主役3人に馴染みがないと笑えないかもしれない。当方もローブスンがわからなくて調べた。

 3の内容は、7月に出る本の解説で要点を紹介するつもり(追記3参照)。それでもひとつだけあげると、「好きな短篇小説作家は?」という質問に答えてR・A・ラファティの名前をあげ、“He's a singer; I'm a talker”と述べているのが興味深い。ほかに名前のあがっている作家は、トム・ジョーンズ、モリー・グロス、デイヴィッド・セダリス。これまた不勉強でグロスとセダリスという作家はまったく知らない。どなたかご教示してくださいませ。

 最後に《歯に衣を着せない作家》叢書で出ているほかの本をあげておく――

The Lucky Strike by Kim Stanley Robinson
The Underbelly by Gary Phillips
Mammoths of the Great Plains by Eleanor Arnason

 なるほど、といいたいところだが、フィリップスという作家ははじめて知った。どんな作風なのだろう。これまたご教示願います(追記4参照)。(2005年4月5日)

【追記1】
 拙編のビッスン傑作集『平ら山を越えて』(河出書房新社、2010)のこと。

【追記2】
 この大ベストセラーは一部が邦訳されているほか、映像化されたもののDVDが入手できると添野知生氏と堺三保氏に教えてもらった。感謝。

【追記3】
 T・B・カルフーンという人がインタヴュアーを務めているが、ビッスン本人の変名だとあとで知った。T・Bはテリー・ビッスンの略だろう。カルフーンという名前は、奴隷制支持で有名な19世紀の大物政治家を連想させるので、皮肉がこめられているのかもしれない。

【追記4】
 《歯に衣を着せぬ作家》シリーズは、この後、マイクル・ムアコック、アーシュラ・K・ル・グィン、コリー・ドクトロウ、ルーディ・ラッカー、ナロ・ホプキンスンの作品を刊行している。くわしくはリンク先をご覧ください。

2013.02.09 Sat » 『回収アーティスト』

【承前】
 テリー・ビッスンをもう一冊。いまのところ最新長篇 The Pickup Artist (Tor, 2001) のことも書いておこう(追記1参照)。

2005-9-10(Pickup Artist)

 舞台は、アーカイヴの記憶容量の関係で、新しい芸術がひとつあらわれると、古い芸術がひとつ抹消されるようになった未来。表題の回収アーティストというのは、抹消されることになった芸術(の複製)を回収してまわる役人である。アートに関係する仕事だからアーティストなのだろう。

 主人公はそのひとり。芸術にはまったく関心がなかったが、あるとき回収したレコードを手元に残すことにしたため、歯車が狂っていく……。

 というわけで、典型的なディストピア小説。ブラッドベリの『華氏451度』の系譜である。
 じつは主人公の動きとはまったくべつのストーリー・ラインがあって、クライマックスで両者が融合するのだが、これがあまりうまくいっていない。
 ビッスンという人は、もともとプロット作りがうまい方ではない。拙訳のある2長篇(追記2参照)は、作品としては成功しているが、どちらもA地点からB地点への移動であり、そのあいだはエピソードの積み重ね。緊密なプロットは存在せず、エピソードの数しだいで長さはどうにでもなるタイプの作品。そういう意味では本質的に短篇作家なのだろう。
 
 ところで、この本は読んだときに紹介文を書こうと思って、ある雑誌に話をもちかけたら、「べつの人が書く予定がある」といって断られたのだった。けっきょくその人は書かなかったので、ちゃんとした紹介はされずに終わっている。こうして闇に葬られていく本は、どれくらいあるのだろう。(2005年9月10日)

【追記1】
 この後2012年になって、ようやく待望の長篇 Any Day Now (Overlook) が出た。

【追記2】
『世界の果てまで何マイル』(ハヤカワ文庫SF、1993)と『赤い惑星への航海』(同前、1995)のこと。


2013.02.08 Fri » 『謹啓』

【前書き】
 以下は2005年9月9日に書いた記事である。誤解なきように。


 テリー・ビッスンの最新短篇集 Greetings (Tachyon, 2005)を読んだ。2001年から04年にかけて発表された10篇が収録されている。

2005-9-9(Greetings)

 半分は初出時に読んでいたので予想はしていたが、「死」と「老い」をテーマにした作品が、これでもかこれでもかとつづく。ビッスンの作品でいえば、「冥界飛行士」や「マックたち」の系列ばかりを読まされる感じ。ユーモアを期待する人は、手痛いしっぺ返しを食うだろう。

 もちろん作品自体は高水準だが、こう暗いトーンの作品ばかりだと気が滅入ってくる。なかでも表題作の“Greetins”はすごい。人口問題と老人問題の行き着く末を描いたディストピア小説で、集中ベストだが、もっとも暗澹たる作品になっている。

 ベスト3を選ぶなら、ほかは時間旅行、ネアンデルタール人、過去からの手紙という題材で、ある女性科学者の孤独を浮き彫りにする“Scout's Honor” 、一種の死後譚を少年小説風に展開する“Almost Home” だろう。 

 最後の作品は、この短篇集には珍しい澄明感のある中篇なので、邦訳が出るにちがいない。
 ともあれ、ふつうならブラック・ユーモア調のドタバタになりそうな題材が、じつに生真面目に処理されているので、読むのがしんどい作品集であった。(2005年9月9日)

【追記】
 この短篇集からは、本文で題名を出した「謹啓」、「スカウトの名誉」、「ちょっとだけちがう故郷」の3篇に加え、ファースト・コンタクトものの佳作「光を見た」を訳出できた。すべて拙編のビッスン傑作集『平ら山を越えて』(河出書房新社、2010)にはいっている。ぜひお読みください。

2013.02.07 Thu » 『ワイアールドメイカー』

【承前】
 ビッスンにサインしてもらうため用意してあったのが、幻のデビュー作 Wyrldmaker (Pocket Books, 1981) だ。これを見て、作者は苦笑いをしたような気がする。

2005-7-25 (Wyrldmaker)

2005-7-25 (Wyrldmaker 2)

 変わった題名は作中に出てくる魔剣の名前。たぶん“world”と“wild” にかけているのだろう。このひとふりの剣をめぐって、ヒロイック・ファンタシー調の冒険譚がつづられ、最後にSF的な合理化がある。

 どうせ翻訳は出ないからタネを明かすと、この不思議な世界は、じつは世代宇宙船の内部で、魔剣はコンピュータ・システムを動かすマスター・キーだったというオチ。
 
 陸上帆船で草原を旅するところなど印象的な場面もあるが、総じていえば水準作。暇つぶしにはもってこいだが、残るものはなにもないタイプの作品である。(2005年7月25日)

2013.02.06 Wed » 『熊が火を発見する』

 1993年の世界SF大会で、わが最愛の作家のひとり、テリー・ビッスンに会った。そのとき本人が、持っていた第一短篇集 Bears Discover Fire (Tor, 1993) の校正用仮綴じ本にサインを入れて進呈してくれた。
 もちろんサイン用の本は用意してあったのだが、それとはべつにいただいたもの。まさに家宝である。

2005-7-23 (Bears proof)

 ちょっと汚れているのは元々そうだったから。今はビニール袋に入れて完全防護してある。下はビッスンの署名。

2005-7-23 (Bears proof 2)
 
 で、このときはまだ刊行されていなかったのが、下の本。

2005-7-23 (Bears)

 一応説明しておくと、収録作は19篇。そのうち9篇は邦訳があり、内訳を書いておけば――

「熊が火を発見する」、「ふたりジャネット」、「アンを押してください」、「冥界飛行士」、「未来からきたふたり組」、「英国航行中」は拙編のビッスン傑作集『ふたりジャネット』(河出書房新社、2004)にはいっている。
「平ら山を越えて」は、当方が山岸真氏と共編した年代別SF傑作選『20世紀SF⑥1990年代 遺伝子戦争』(河出文庫、2001)にはいっている。
「ジョージ」、「カールの園芸と造園」は、ビッスン特集を組んだ〈SFマガジン〉1994年11月号に訳載されている。

 ついでに書いておくと、スティーブン・ピンカーの『心の仕組み(上)』(NHKブックス、2003)という科学ノンフィクションに、ショート・ショート“They're Made out of Meat”の冒頭から三分の一ほどが訳出されている。ただし、題名は明記されていない。

 それにしても、こうやって題名を書き写しているだけで、顔がにやけてくるなあ。ビッスンの場合、30枚から50枚の作品がいちばんいい。珠玉の短篇といったら、やっぱりこの長さだよな。(2005年7月23日)

【追記】
 この後、ビッスンの短篇集をもう一冊編むことができた。『平ら山を越えて』(河出書房新社、2010)である。上記「平ら山を越えて」、「ジョージ」、「カールの園芸と造園」は、こちらに収録されている。


2013.02.05 Tue » ジオーン、ジオーグ、プオール、ルウンガ

【前書き】
 もうひとつクイズを、ということで、2006年9月21日に書いた記事を公開する。


  マイクル・ムアコック作《ルーンの杖秘録》第3巻『夜明けの剣』(創元推理文庫)解説のゲラが届いた。入稿時に出来の悪さを指摘され、ずっと気に病んでいた原稿である。
 というのも、さっぱり筆が進まなくて、苦し紛れに自虐的なギャグを書いたら、編集者に駄目だしをくらい、「時間がないからとりあえず入稿するが、ゲラで直すように」といわれていたのだ。今回その部分はバッサリ削って、大幅に書き足し、多少は読めるものになった。ムアコック自身の言葉を引用し、このシリーズの特質を浮かびあがらせたつもりだ。

 で、その解説にもちょろっと書いたのだが、《ルーンの杖秘録》には、いろいろと遊びがある。たとえば、第4巻『杖の秘密』にグランブレタン帝国の古代神の名前が列挙されるのだが、すべて同時代英国人のもじりなのだ。たとえば、「この地を支配していたといわれる」――

Jhone, Jhorg, Phowl, Rhunga

 これは非常にわかり易くて、ビートルズのメンバーの名前。もっとも、邦訳では「ジオーン、ジーグ、ブオール、ルウンガ」になってしまう。
 さて、つぎの名前の元はなんでしょう?

Chirshil, the Howling God
Bjrin Adass, the Singing God
Jeajee Blad, the Groaning God
Jh'Im Slas, the Weeping God
Aral Vilsn, the Roaring God, Supreme God

(2006年9月21日)

【追記】
 回答はこちら


2013.02.04 Mon » ジョン・クリストファー一周忌

【前書き】
 本日は英国のSF作家、ジョン・クリストファーの一周忌である。故人を偲んで、以下の記事を公開する。


 英国の中堅SF作家(だった)ジョン・クリストファーが今月4日に亡くなったそうだ。享年89。大往生というべきか。ともあれ合掌。

http://www.locusmag.com/News/2012/02/samuel-youd-aka-john-christopher-1922-2012/

 クリストファーといえば、ジョン・ウィンダムの後継者ともいうべき存在で、「渋い」英国SFのイメージを体現したような作品を書く人だった。あちらでの評価は非常に高い。
 もっとも、代表作『草の死』と『大破壊』はハヤカワ・SF・シリーズで訳出されたものの、けっきょく文庫にはならなかったし、ジュヴナイル方面の代表作《トリポッド》シリーズも学習研究社とハヤカワ文庫SFから二度にわたって邦訳が出たが、あまり評判を聞かないところを見ると、わが国での人気はさっぱりなのだろう。

 当方は高校生のころに『草の死』を読んで、その荒涼たる破滅のヴィジョンに魅せられた口なので、けっこう思い入れがある。
 だいぶあとのことだが、英国児童文学界の雄、ジョン・ロウ・タウンゼンドが著した『子どもの本の歴史』(岩波書店)を読んでいたら、クリストファーの作品が絶賛されていて、なんだか嬉しくなったことを思いだす。

 本棚をひっかきまわして、クリストファー関連の本を探してきた。いまとなっては珍しいと思われる画像を掲げておく。

2012-2-5(Year of Comets)

 上の図版は、SF長篇第一作 The Year of the Comet (1955) のスフィア版ペーパーバック(1978)の二刷(1983)。冷戦が過熱して、熱い戦争に変わりそうなときに、彗星が地球に近づいてきて……という話らしいが、読んでいない。

 あとの2枚は第一期〈奇想天外〉に短篇が掲載されたときの扉ページ。邦訳はここでしか読めないはずである。

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 まずは1974年7月号に載った「職業上の賭」。目次には「中篇SF傑作」と惹句があるが、長さは55枚くらいなので、ヒューゴー賞基準なら短篇である。第一期〈奇想天外〉には短めの作品ばかりが載っていたので、わざわざ「中篇」と謳いたくなるほど編集部には長く感じられたのだろう。

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 つぎは1974年10月号に載った「人類ごっこ」の扉。
 この号は休刊号で、「ショート・ショート・フェスティヴァル」と銘打ってショート・ショートを一挙に19篇掲載した。ピアズ・アンソニイ、ロジャー・ゼラズニイ、エリック・フランク・ラッセルのここでしか読めない作品が載っているので、ファンは要チェックである。(2012年2月5日)

2013.02.03 Sun » 『デーモン・ナイト傑作集』

【承前】
 デーモン・ナイトの楽屋オチ短篇“A Likely Story”が収録されている本を紹介しておこう。The Best of Damon Knight (Doubleday, 1976) である。珍しくこれはハードカヴァーで持っている。

2006-3-14 (Knight)

 題名どおり、この時点までのナイトの代表的短篇を22篇集めたもの。作者自身が各篇にコメントを寄せているほか、バリー・N・マルツバーグの短い序文がついている。

 収録数が多いので、邦訳がある作品だけあげると、収録順に――「男と女」、「人類供応のしおり」、「心にひそむもの」、「バベルⅡ」、「早熟」、「奇妙な届け物」、「時を駆ける」、「むかしをいまに」、「壺の中の男」、「敵」、「吸血鬼」、「人形使い」、「おみやげはこちら」、「仮面{マスク}」の14篇となる。

 このなかでいちばん有名なのは、《トワイライト・ゾーン》のエピソードにもなった「人類供応のしおり」だろう。じっさいこの本の表紙絵の題材になっている。
 
 わが国で独自に編まれたナイトの短篇集『ディオ』(青心社、1982)とは「壺の中の男」と「時を駆ける」しか重なっていない。

 「仮面」は当方が気に入って訳し、アンソロジー『影が行く――ホラーSF傑作選』(創元SF文庫、2000)に収録した。サイボーグものの名品だと思う。

 ナイトはスタイリストなので、翻訳では魅力が伝わりにくい面がある。未訳作品は特にその傾向が強い。だから、よっぽど熱心な紹介者があらわれないかぎり、今後も翻訳は進まないだろう。

 といったそばからなんだが、超絶技巧を駆使した時間SF「むかしをいまに」は、近いうちに復活させる。いま企画している時間SFアンソロジーに入れるつもり。乞御期待。(2006年3月14日)

【追記】
 この後、ロマンティック時間SF傑作選と銘打った『時の娘』(創元SF文庫、2009)に「むかしをいまに」を収録することができた。旧訳の訳者だった浅倉久志氏が、一から訳しなおしてくださった新ヴァージョンである。ぜひお読みください。






 


 

2013.02.02 Sat » 「ありそうな話」のこと

 デーモン・ナイトの短篇“A Likely Story” (1956) を読んだ。

 メデューサ・クラブというSF作家の集まりが主催したパーティーの席上で、講演者のズボンが落ちたり、ギターが勝手に鳴りだしたり、シャンデリアがぐらぐら揺れたりといった椿事が続発する。どうやらマクスウェルの悪魔を地でいく方法を見つけた人間がいるらしい……という話だが、すでにお察しのように、これは楽屋オチ小説で、実在のSF関係者が変名でぞろぞろ出てくる(メデューサ・クラブは、実在したハイドラ・クラブのもじり)。
 この手の小説としては、ディックの「水蜘蛛計画」(1964)が有名だが、こちらのほうがだいぶ早い。もっとも、ナイト自身の弁によると、ベスターが楽屋オチ小説を書いたのを見て、自分もやってみたくてたまらなくなったそうだが。
 主な名前を書き写しておくが、皮肉がこもっているのもあって面白い。何人わかりますか?

Preacher Flatt
Rod Pfehl
Leigh MacKean (with her pale proto-Nordic face)
Art Greymbergen (my favorite publisher)
Asa Akimisov
L. Vague Duchamp
B. U. Jadrys (the All-Lithuanian Boy)
Bill Plass (comic genius)
Don W. Gamble, Jr.
Jerry Thaw
Kosmo Samwitz (bullhorn voice)
Phog Relapse
Werner Kley (made a very charming speech, full of Teutonic rumbles)
Fred Balester
Lobbard (discovering Scatiology)

(2011年11月6日)

回答はこちら

2013.02.01 Fri » ノヴェラとノヴェレット

【前書き】
 これまでノヴェラやノヴェレットという言葉を説明ぬきで使ってきたが、いちどきちんと説明しておこうと思う。というわけで、以下の記事を公開する。


 わが国では短篇と長篇という言葉が恐ろしいほど恣意的に使われていて、400字詰め原稿用紙換算で200枚の短篇もあれば、300枚の長篇もあるといった具合だが、アチラではかなり厳密な区分がされている。ヒューゴー賞の基準を例にとると、つぎのようになっている――

ショート・ストーリー(短篇) 60枚未満
ノヴェレット(中篇) 60枚以上120枚未満
ノヴェラ(長い中篇) 120枚以上330枚未満
ノヴェル(長篇) 330枚以上

 付け加えれば、20枚未満の作品をショート・ショート・ストーリー、250枚から330枚くらいの作品をショート・ノヴェルと呼ぶこともある。
 ついでに書いておくと、ノベレットというのは長めの短篇、ノヴェラというのは短めの長篇といった趣がある。

 ヒューゴー賞の話をすると、むかしは短篇と長篇の2部門しかなかった。これでは30枚の短篇と、250枚のノヴェラが同じ土俵で争うことになる。それはあまりにも無茶だという反省から、部門が細分化されたという経緯がある。
 もちろん、グレーゾーンは存在するので、ときにはノヴェレット部門の受賞作とノヴェラ部門の受賞作の長さがほぼ同じというような事態も起こるが、この区別は意識しておいたほうがいい。

 短篇、中篇、長篇と並べると、たんに長さのちがいだけに思えるが、英語ではべつの名前がついているように、それぞれかなり性格がちがうものなのである。(2008年12月9日)