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SFスキャナー・ダークリー

英米のSFや怪奇幻想文学の紹介。

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2013.07.31 Wed » 『四次元への飛行{フライト}』

 昨日書いた「お糸」収録の本とは、野田昌宏編のアンソロジー『四次元への飛行{フライト}』(酣燈社, 1977)であった。小ぶりの四六判変形ソフトカヴァー。320ページほどの本だ。

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 版元は雑誌〈航空情報〉を出している老舗。《スカイ・ブックス》という叢書があって、福本和也の小説などを出していた。本書はその1冊である。
 余談だが、秀作航空映画「飛べ!フェニックス」の原作もこの版元から翻訳が出ていて、それが印象に残っている。

 さて、「航空SF傑作集」と銘打たれているとおり、本書は飛行機マニアとしても有名だった編者が、趣味を全開にして日本作家の手になる航空SFを集めたもの。「飛行機SF」でないのは、飛行船も混じっているからか。まずは目次を整理して書き写しておこう。例によって初出年(雑誌の奥付準拠)と推定枚数を付す――

1 誕生――マリー・セレスト号への挑戦  半村良 '72 (110)
2 黒いハイウェイ  豊田有恒 '64 (10)
3 地球軍独立戦闘隊  山田正紀 '76 (110)
4 原爆機東へ  横田順彌 '70 (5)  
5 夢魔の空中戦  光瀬龍
6 飛行船ケネディ号の乗客  高斎正 '76 (45)
7 空の死神  星新一 '74 (20)
8 五郎八航空  筒井康隆 '74 (40)
9 追いこされた時代  かんべむさし '75 (75)
10 お糸  小松左京 '75 (100)

 書誌情報が明記されていないので7の初出年が不明だが、わかるかぎりでいうと、いちばん古くて1964年。あとは1970年代前半が主で、いちばん新しいのは1976年。要するに古典には目をつぶって、いきのいい作品ばかりを集めた意欲的な編集である。

 ひと口に航空SFといっても、その切り口はさまざま。戦争秘話のようなものから、架空の航空路線を描いたものまでヴァラエティに富んでいる。かならずしも航空機のスペックが明確な作品ばかりではないのだが、それでも飛行機マニアなら泣いて喜ぶような作品ばかり。編者が思いきり楽しんでいるようすが伝わってくる。
 野田昌宏氏の仕事のなかでは、あまり知られていないはずなので、あえて紹介するしだい。

 ところで、トリを飾った「お糸」には、つぎのような解説文が付されている――

「書きたいことは山程あるのだけれど、そのどれをとっても、書けば本編を読むたのしさが阻害されてしまう。だから敢えてなにも書かぬことにする。丹念に読んでいって欲しい。飛行機好きのあなたは、必ずニヤリとする筈である。
 作者からの伝言。〈天狗船〉はドルニエのDo-Xのイメージだそうです」(2011年8月21日)



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2013.07.30 Tue » 「お糸」における描写

【承前】
 《女》シリーズの描写はすばらしいが、これみよがしのところがあるのもたしか。その点、傑作「お糸」(1975)では、もっと自然な形で小松左京の美質が発揮されている。
 
 この作品は、江戸時代に1970年代の文物が根付いているという設定で書かれた一種の改変歴史もの。その江戸化された羽田国際空港の描写を引く――

「ひろい入口をはいると、広土間は、見送り、出むかえ、乗船を待つ大勢の人々でごったがえしていた。土間の一方は、乗船の手つづきをする帳場になり、客は帳場格子の前にならんだり、上がり框に腰かけたりしながら、金をはらい、切符を買っている。帳場のむこうでは、鼠唐桟に角帯をきりりとかけ、前垂れをつけた汎米屋の手代小番頭や、空色地矢絣に椎茸髷、黒繻子帯を立て矢の字に結んだ、御殿女中風の女たちが、客の行く先を聞き、便を説明し、手荷物をうけとり、乗客名簿を記入し、切符をわたし、きりきりはたらいている。――女たちの中には、西洋から来たらしい、金髪碧眼の、人形のような女性もいた」

 文章の息の長さに留意されたい。昨日も書いたが、これが作者の思考のリズムであり、息づかいなのである。

 「お糸」の描写は、作品世界の構築と渾然一体になっている。この作品に描かれているのは、理想化された江戸文化であり、日本情緒あふれるユートピア(つまり、どこにもない場所)だが、そのリアリティをささえているのが、なによりも修辞なのだ。これぞ文体の功徳というものだ。

 なぜこういうことをしつこく書くかというと、小松左京の小説を論じるさい、テーマやアイデアといった「書かれている内容」にばかり注目し、「どう書かれているか」を看過した例が多すぎるからだ。それが小説である以上、文体や技法を論じなければ片手落ちなのである。

 ところで、上の例文は書棚からいちばんとりだし易かった本から引いた。その本については、つぎの岩につづく。(2011年8月19日)

2013.07.29 Mon » 小松左京の描写について

 前回、小松左京の美質のひとつとして「息の長い文章による流麗な描写」をあげた。これは実例をあげないと判りにくいだろうから、現物をお目にかける。

 小松左京が意識的に描写に力を注いだ作品といえば、《女》シリーズにとどめを刺す。なにしろ、頭が古くてSFを受けつけない編集者たちを瞠目させるために、あえて向こうの土俵にあがって、古いタイプの文学的修辞を駆使した作品群なのだ。
 たとえば「流れる女」(1974)から引いてみよう――

「その時、一きわにぎやかな嬌声が入口の所にあがって、女たちから口々にあいさつをうけながら、すらりとした女性がのれんをわけて出て来た。あいさつのうけこたえを聞くと、どうやら妓{おんな}たちの芸事の御師匠さんらしい。が、そんな事よりも、私はその女性の水ぎわだった姿に思わず息をのんだ。――たっぷりの洗い髪に黄楊{つげ}の櫛、黒繻子{くろじゅす}の襟{えり}をかけた眼のさめるような鳶色{とびいろ}縞の黄八丈に黒繻子の帯、肩に朽葉色の地に黒茶と朱の子持ち唐桟{とうざん}の袖半纏{そでばんてん}をひっかけ、今どき珍しい草色呉絽の垢{あか}すりをふちからのぞかせた銅{あか}の小盥{こたらい}を胸もとにかかえ、足もとはむろん、湯上りの桜色に上気した素足に塗りの駒下駄、紅をさしたとも見えぬのに見事に赤い唇のはしに、紅絹{もみ}の糠袋をくわえて、色あせた紺のれんをすいとくぐって出てきた所は、まるで源氏店のお富で――ないものといえば、下女に蛇の目傘ぐらいだった」

 引用はハルキ文庫『くだんのはは』(1999)所収のものより。
 さて、最初のダッシュ以降が、たったひとつの文章であることに留意されたい。「息の長い文章」とはこのことで、これは作者の思考のリズムを反映している。このねばり強い思考が、小松左京の持ち味なのだ。文芸作品を読む醍醐味は、本来こうした「文体」の妙味を味わうことにある。

 正直いって、当方にも着物は半分もイメージできないのだが、それでも文章のリズムの心地よさで楽しく読める。体言止めがふたつつづいたあと、「け」「え」と連用形がつづき、また体言止めが出てくるあたりの呼吸が絶妙だ。最後にさらりと歌舞伎への言及があるが、これはかろうじて判る。要するに、この文章を存分に味わうには、それ相応の素養が必要なのである。

 だが、こうした描写はストーリーの運びには直接の関係がない。したがって、いまの多くの読者には「読むのが面倒」という理由で敬遠されるだろう。彼らにとって大事なのはストーリーと会話であって、それ以外の「文彩」は、夾雑物なのである(こうした描写を最初からイラストにあずけてしまったのが、今風の小説といえるかもしれない)。
 
 ありゃ、「お糸」からも例を引こうと思ったが、長くなってしまったので、つぎの岩につづく。(2011年8月18日)

2013.07.28 Sun » 小松左京傑作集

【前書き】
 去る7月26日は不世出のSF作家、小松左京の三回忌だった。故人を偲んで、訃報に接したあと書いた文章を公開する。


 小松左京が亡くなって以来、手もとにある本を片っ端から読み返していた。といっても、多くの本は田舎にあるので、再編集ものの短篇集が主である。それもひと区切りついたので、例によって傑作集を編んでみることにした。

 お断りしておくが、これは自分にとっての小松左京を再確認する作業であり、商業出版なら必要な配慮はいっさいしていない。あくまでもそういうものとして見ていただきたい。
 とはいえ、上限1200枚という目安をもうけた。無制限にすると百篇くらい選びそうなので、取捨選択の条件を厳しくしたのだ。そのほうが自分にとって面白いからである。

 配列は年代順。括弧内は推定枚数である――

1 御先祖様万歳  '63 (70)
2 お召し  '64 (60)
3 黴  '66 (75)
4 痩せがまんの系譜  '68 (45)
5 毒蛇  '71 (120)
6 結晶星団  '72 (185)
7 お糸  '75 (100)
8 ゴルディアスの結び目  '76 (120)
9 眠りと旅と夢  '78 (120)
10 雨と、風と、夕映えの彼方へ  '80 (80)
11 氷の下の暗い顔  '80 (180)

 合計1155枚。文庫なら700ページを超すが、最近ではざらにある厚さだろう。もっとも、電子書籍時代に突入すれば、こういう問題自体がなくなるかもしれない。

 こうして並べてみると、当方が小松SFになにを求めているかがよくわかる。
 このなかでひときわ目立つのは、6、8、10、11だろう。最新科学をバネにして「宇宙にとって人間とはなにか」という哲学的テーマを展開した小説である。まさにSFの醍醐味であり、小松SFの本道である。
 これらはハード・サイエンス寄りだが、おなじテーマをソフト・サイエンス(精神科学)寄りで展開したのが9だといえる。

 いっぽう時間SFの形式で「古き良き日本」を幻のように現出させる作品群は、小松SFのもうひとつの本道だろう(本道が何本もあるところが小松左京)。1、4、7がそれだが、とりわけ7は逸品。何度読んでもため息が出る。

 ところで、今回まとめて読み返して、小松作品が時代とずれていった理由がわかってきた。
 ひとつには、キャラクターよりも思索を重視した小説作法。もうひとつは、息の長い文章による流麗な描写。いずれも小松SFの美質だが、キャラ重視、一文一改行に象徴されるストーリーを運ぶだけの文章重視といった時代の趨勢と合わなくなったのだ。
 要するに、小松SFを楽しむための素養が現在の多くの読者には欠落しているわけで、よっぽどのことがないかぎり、小松SFが大衆的人気をとりもどすことはないだろう。残念ながら、そういう感想をいだいた。

蛇足
 小松左京が、いわゆる奇現象に肯定的なのに改めて気づいた。SFは、このいかがわしい部分を切り捨ててはいけないのだよなあ、と思ったしだい。(2011年8月16日)

【追記】
 徳間書店が出した追悼ムック『完全読本 さよなら小松左京』(2011)のアンケートに参加できたのは、身にあまる光栄だった。「あなたにとって小松作品のベスト1は何ですか」という質問に対して、当方は「お糸」をあげた。

2013.07.27 Sat » 『複数の失われた世界』

 リン・カーターのつづき。

 作家としてのカーターは、シリーズものの長篇を主体に書いていたが、中・短篇もそれなりの数を遺した。しかし、それらが単行本にまとめられる例はすくなく、けっきょく生前に出た短篇集は1冊だけ。それが Lost Worlds (DAW, 1980) だ。

2011-3-23(Lost Worlds)

 表題の「失われた世界」というのは、アトランティスやムーといった超古代大陸とほぼ同義。カーターという人は、小説を舞台設定で分類するのが大好きで、クラーク・アシュトン・スミスの短篇集を地名別に何冊も編んだほど。同じことを自作でやってみたかったらしく、この本は舞台となる古代世界別にセクション分けされている。すなわち、ハイパーボリア(2篇)、ムー(1篇)、レムリア(2篇)、ヴァルシア(1篇)、アンティリア(1篇)、アトランティス(1篇)である。

 このうち邦訳があるのは、〈ハイパーボリア〉の部におさめられた「モーロックの巻物」と「窖に通じる階段」の2篇のみで、これはC・A・スミスとの没後共作。どういうことかというと、スミスが遺した創作メモを基にカーターが書いたもので、実質的にカーターの作品である。
 この2篇はロバート・M・プライス編のアンソロジー『エイボンの書』(新紀元社)に収録されているのだが、面白いことに、同書では「モーロックの巻物」はカーター単独名義になっている。さすがに、スミスの関与がゼロの作品を共作にはできなかったらしい。

 この2篇と〈ムー〉の部におさめられた“The Things in the Pit”は《クトゥルー神話》に属す作品。後者はラヴクラフトが代作したヘイゼル・ヒールドの「永劫より」のあからさまな模倣で、本人もそれを認めており、「この作品の勿体ぶった文体が大好きなので、敬意をこめて模倣してみた」と述べている。発表する媒体がなかったらしく、本書に初出である。

 〈レムリア〉の部におさめられた2篇は、ともに英雄ゾンガーの若いころの冒険を描いたもの。〈ヴァルシア〉の部におさめられた作品は、《キング・カル》シリーズの1篇で、ロバート・E・ハワードとの没後共作。残る2篇はオリジナルの〈剣と魔法〉である。
 
 型どおりの作品が並ぶが、なかでは〈アンティリア〉の部におさめられた“The Twelve Wizards of Ong”がいちばん面白かった憶えがある。《ゾンガー》もの2篇も悪くない。
 とはいえ、30年も前に読んだ本なので、記憶が正しいかどうかは保証のかぎりではない。(2011年3月23日)


2013.07.26 Fri » 『カージの探索』

 大風呂敷を広げるといえば、リン・カーターの作品のなかでその最たるものは、おそらく《キリックス星系》シリーズだろう。
 これは、一角獣座の恒星キリックスをめぐる五つの惑星にそれぞれヒーローを配し、全体として壮大な宇宙年代記を構築しようという試み。だが、じっさいは惑星ガルザンドを舞台とする長篇1作と、惑星スーラナを舞台にした中篇2作が書かれただけで終わった。じつは、カーターもシリーズ作品を書きはじめては、未完のままほったらかしておくという悪習に染まったひとりなのである。

 ともあれ、惑星ガルザンドを舞台に、英雄カージの冒険を描いたのが、長篇 The Quest of Kadji (Belmont, 1971) だ。

2011-3-17(Quest of)

 物語は、放浪の戦士団コザンガの敗走からはじまる。一族の長サロウクは、仇敵に死をあたえるため、孫であるカージを探索の旅に送りだす。少年の面影を残した若き戦士カージは、神の武器といわれるソマ・ラの斧を手に、一路東をめざす。
 途中ひょんなことから東方人の魔術師アクスーブを助け、行動をともにするようになる。やがて旅の道連れとした漂泊民の罠にはまり、重傷を負ったカージだが、狼を友とする謎の少女ザイラの看病で一命をとりとめ、東の彼方にある〈世界の果て〉で、ついに追いつめた敵を討ちとるのだった……。

 ひとことでいうと、〈剣と魔法〉の見本のような作品。とはいえ、フォーミュラ・フィクションにはフォーミュラ・フィクションのよさがあり、読後感はけっして悪くない。

 表紙絵を描いた画家の名前は記載されていないが、サインがあるのでジェフ・ジョーンズとわかる。このころは完全にフラゼッタの模倣だったんだなあ。(2011年3月17日)

2013.07.25 Thu » 『世界の果ての戦士』

 リン・カーターの小説で真っ先に名前のあがるのは、英雄ゾンガーを主人公にした《レムリアン・サーガ》だろう。これは邦訳もされたが、私見ではこれと同等、あるいはそれ以上と思われる作品が未訳になっている。それが全5巻(あるいは6巻)から成る《ゴンドウェイン》シリーズだ。

 もともとは Giant of World's End (Belmont, 1969) という単発長篇だったのだが、これが好評を博したので、作者は構想を練りなおし、5巻のシリーズに書きのばした。したがって、数え方によってシリーズが全5巻になったり全6巻になったりする。

 〈剣と魔法〉に分類される作品だが、むしろ冒険SFに近い道具立てが本シリーズの特徴。なにしろ舞台は七億年先の超未来、地球最後の大陸ゴンドウェイン。主人公はその二億年前に作られた人造人間。しかもその使命は、月の落下を阻止することなのだ。
 クラーク・アシュトン・スミスの《ゾシーク》シリーズを意識したのだろうが、大風呂敷を広げたものである。

2011-3-16(Warrior of)

 第一作 The Warrior of World's End (DAW, 1974) はこんな話だ――

 ひと組の男女がゴンドウェインの荒野を旅している。〈青い雨〉を避け、洞窟で雨宿りをするふたりの前に、ひとりの巨人が姿をあらわした。全裸で、記憶もなく、話すこともできないこの巨人は、まるで大きな赤ん坊だった。その後、この巨人はガネロンと名づけられ、夫婦の庇護のもと、ゼルミッシュの街で平和な日々を過ごす。
 が、あるとき獣人族インディゴンが襲来。ガネロンは超人的な力で街を救い、一躍英雄となる。やがて隣国の女帝が、ガネロンを臣下にしようとするが、ガネロンはこれを嫌い、〈幻術師〉とともに街を脱出。このとき〈幻術師〉の口から、ガネロンの正体が明かされる。彼は、古代文明が未来の地球を救うために遺した人造人間だったのだ。
 〈幻術師〉のもとで古代科学の驚異を学んだガネロンは、復活させた機械鳥に乗り、世界の危機に際して旅立つ。まずは地上に破滅をもたらす〈空の島〉を止めるために。
 ガネロンは 空飛ぶ島で〈空の民〉と死闘をくり広げ、みごと〈死の機械〉を停止させ、世界に平和をよみがえらせる。だが、彼にはまだ大きな任務が残っていた。〈落下する月〉を食いとめるという任務が……。

 明らかにエドガー・ライス・バローズの焼き直しだが、非常に楽しく読める。
 ちなみに表紙絵は、宇宙船の絵で有名なヴィンセント・ディフェイトが担当している。意外。(2011年3月16日)

2013.07.24 Wed » 『魔術の諸領域』

 昨日紹介した本と対になるのが Realms of Wizardry (Doubleday, 1976)だ。同時に発売されたらしく、二冊の独立したアンソロジーというよりは、大著の二分冊といった性格らしい。

2007-6-3(Realms)

 編集方針は姉妹編とほぼ同じで、大家の有名作から無名作家の珍品までとりそろえている。とはいえ、本書のほうが〈剣と魔法〉寄りで、カーターの趣味を色濃く反映している。

 収録作16篇中、長篇の抜粋が4篇。すなわちキャベル『ジャーゲン』、ハガード『洞窟の女王』、メリット『金属モンスター』、ボク『魔法使いの船』である。もっとも、キャベルの抜粋は、独立した作品として雑誌に発表された部分なので、短篇として見ることも可。
 残りのうち邦訳があるのは、ダンセイニ「ギベリン族の宝蔵」、ラヴクラフト「サルナスを襲った災厄」、ブロック「黒い蓮」、ムーア&カットナー「スターストーンを求めて」、ヴァンス「無宿者ライアン」、ムアコック「オーベック伯の夢」、ゼラズニイ「セリンデの歌」。
 このほかゲイリー・マイヤーズ、リチャード・ガーネット、ドナルド・コーリイ、ロバート・E・ハワード、クリフォード・ボールの作品が収録されている(が、邦訳したいほどの秀作はない)。

 見てのとおり非常に手堅いラインナップ。定番が多く、面白みに欠けるが、啓蒙アンソロジーだからこれでいいのだろう。
 それにしても、こういう本を編むときダンセイニの作品は重宝する。20枚以下の傑作がゴロゴロしているから、ほんとうに選り取りみどりなのだ。あらためて、その偉大さに敬服する。(2007年6月3日)

2013.07.23 Tue » 『妖術の諸王国』

 リン・カーターが編んだ空想世界ファンタシーの啓蒙アンソロジーには Kingdoms of Sorcery (Doubleday, 1976)というのがある。

2007-6-2(Kingdoms)

 だが、この本は意外に世に知られていない。というのも、ローカスの短篇集・アンソロジー・リストから、どういうわけか漏れているからだ。世に出まわっているカーターの著作リストは、このリストを基にしたものが多いので、当然ながら記載されていないのである。
 当方は本書の姉妹篇を手に入れたとき存在を知り、あわてて注文したのだった。

 本書はカーターが編んだ一連の啓蒙アンソロジーとしては初のハードカヴァー。そういうわけでなかなか気合いがはいっており、大家の有名作から同人誌レヴェルの珍品までとりそろえている。主要な短篇はすでに使ってしまったという事情もあるのだろうが、類書には見られないユニークな目次になっているのはたしか。

 だが、その編集方針が裏目に出た感がある。というのも、収録作19篇中7篇が長篇の抜粋。6篇が10枚以下の掌編なのだ。
 おそらく本書は見本市であって、興味があったら同じ作者の単行本に手をのばしてくれということなのだろう。だが、アンソロジーとして見れば、首をかしげざるを得ない。長篇の一部抜粋で、その作品の真価が伝わるとは思えないし、散文詩のような掌編は、物語を愛好する読者を敬遠させるだけだからだ。

 ちなみに、抜粋が載っている長篇はベックフォード『ヴァテック』、エディスン Misteress of Misteresses、プラット The Well of the Unicorn、 ホワイト「石にさした剣」(ただし、邦訳版からは削除された部分)、ルイス『ライオンと魔女』、トールキン『旅の仲間』、アダムズ『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』。
 邦訳がある作品はライバー「ランクマー最高の二人の盗賊」、ポオ「影」、「沈黙」、C・A・スミス「悲しみの星」、「記憶の淵より」。
 このほかヴォルテール、マクドナルド、モリス、ロバート・H・バーロウ、ディ・キャンプの短篇と、スミスの散文詩がさらに1篇載っている。姉妹編とくらべると、民話/寓話色の濃い作品を集めたものといえる。(2007年6月2日)

2013.07.22 Mon » 『古きに代わる新しき世界』

 リン・カーターの空想世界啓蒙アンソロジー第二弾が、New Worlds for Old (Ballantine, 1971) だ。

2006-10-3 (New)

 変わった表題だが、これにはつぎのような意味がある。
 むかしから人間は、「ここではないどこか」を空想してきた。かつてその空想の地は、地球上のどこかにあるとされていた。だが、時代が下るにつれ、地球上にそのような土地が存在しないことが明らかになり、ちがう種類の別世界を空想せざる得なくなった。それが「古きに代わる新しき世界」である。

 というわけで、その「古き世界」をテーマにしたのが、本書の姉妹編 Golden Cities, Far (Ballantine, 1970) で、こちらは神話・伝説の再話やそれを題材にした創作を集めている。それに対して本書は、個人が空想した別世界を舞台にしたファンタシーを集めている。

 さすがに第二弾だけあって、作家の選択にちょっとヒネリが見られる。例によって作家名を列挙する。

 ウィリアム・ベックフォード(C・A・スミス訳)、エドガー・アラン・ポオ、ジョージ・マクドナルド、オスカー・ワイルド(詩)、ロード・ダンセイニ、H・P・ラヴクラフト、ゲイリー・マイヤーズ、リン・カーター、ジョージ・スターリング(詩)、ロバート・E・ハワード、C・L・ムーア、クリフォード・ボール、クラーク・アシュトン・スミス(詩)、マーヴィン・ピーク。

 そろそろ珍しい作品が底をついたのか、いろいろと苦しい選択。 たとえば、ピークの作品が収録されていると聞くと色めきたつ向きもあるだろうが、じっさいは『タイタス・アローン』から削られた章が載っているだけ。羊頭狗肉の感が強い。
 それでも、スターリングとスミスの師弟をそろい踏みさせるなど、知恵を絞ったあとは見える。

 ちなみにクリフォード・ボールというのは、コナン・フォロワー第一号ということで、古手の〈剣と魔法〉ファンには有名な作家だが、訳されていないのには理由がある。発表された三篇、すべて箸にも棒にもかからない駄作なのだ。いくら珍しいからといって、駄作を収録するのはやはり良くない。肝に銘じておこう。(2006年10月3日)

2013.07.21 Sun » 『若き魔術師たち』

 リン・カーターが編んだアンソロジーは数多いが、その嚆矢が The Young Magicians (Ballantine, 1969) だ。

2006-10-2 (Young)

 高名な《バランタイン・アダルト・ファンタシー》シリーズの一冊で、同時に出た Dragons, Elves, Heroes (Ballantine, 1969) とは姉妹編の関係にある。つまり、どちらも彼のいう空想世界ファンタシーの啓蒙アンソロジーなのだが、カーターが近代ファンタシーの祖と目すウィリアム・モリス以前/以後で二巻に分かれており、こちらが「以後」にあたるわけだ。

 まだ「空想世界ファンタシー」という言葉を発明してなかったらしく、ここでは「トールキン風ファンタシー」という言葉を使っているが、それがどのようなものかは、収録作家の顔ぶれを見れば一目瞭然である。

 ウィリアム・モリス、ロード・ダンセイニ、E・R・エディスン、ジェイムズ・ブランチ・キャベル、H・P・ラヴクラフト、クラーク・アシュトン・スミス、A・メリット、ロバート・E・ハワード、ヘンリー・カットナー、L・スプレイグ・ディ・キャンプ、ジャック・ヴァンス、C・S・ルイス、J・R・R・トールキン、リン・カーター。

 このほか、諸般の事情で収録できなかった作家として、以下の名前が献辞にあがっている。

 ロイド・アリグザンダー、ポール・アンダースン、ジェイン・ギャスケル、ジョン・ジェイクス、フリッツ・ライバー、マイクル・ムアコック、アンドレ・ノートン。

 ここで強調したいのは、カーターが空想世界ファンタシーをあまり細分化せず、ひとまとめにあつかっていること。エディスンとラヴクラフトとアリグザンダーをいっしょに並べる人間は、そうはいない。
 当方としても、サブジャンルのちがいをいいたてる現在の風潮には違和感を感じているので、このカーターの姿勢には大いに共感する。たしかにジャンルは細分化できるし、その独自性を主張することもできるが、そんなことをしても益はないような気がする。
 アガサ・クリスティもダシール・ハメットもミステリなのだから、トールキンもハワードも空想世界ファンタシーでいいじゃないか、というのが率直なところである。(2006年10月2日)

2013.07.20 Sat » リン・カーターのこと

 リン・カーターといえば、作家としては三流、評論家としては二流、ファンタシーの目利きとしては一流といった評価がおおむね定着している。それに異論をさしはさむ気は毛頭ない。
 だが、そのファンタシー馬鹿一代ぶりは尊敬に値するし、好きか嫌いかといえば、確実に好きな作家・アンソロジストのひとりである。その駄目なところをふくめて偏愛の対象なのだ。

 じつは大むかしにリン・カーターの小説を訳している。同人誌〈ローラリアス〉の8号に載せた「黒い月翳」という50枚の短篇だ。これは《ゾンガー》シリーズの1篇。若きゾンガーの活躍を描いたもので、海賊時代の話である。

2006-10-1 (Rolrious)

2006-10-2(Lin Carter)

 《コナン》シリーズの「黒い海岸の女王」の校訂をしているとき、よく似た設定の話ということで思いだしたので、引っぱりだしてきた。奥付を見ると、発行は1984年11月20日。それから20年もたって、カーターの評論『ファンタジーの歴史――空想世界』(東京創元社)を訳出することになるとは夢にも思わなかった。

 訳者名が畑村針になっているが、これはハリー・パターソン(ジャック・ヒギンズの別名)のもじり。当時はヒギンズやバグリイに傾倒していたのである。われながら恥ずかしい筆名だ。

 ちなみに、イラストを描いてくれたのは亜神さん。作家、ひかわ玲子女史の兄君である。(2006年10月1日)

2013.07.19 Fri » 『L・スプレイグ・ディ・キャンプ傑作集』

 編纂したアンソロジー『時を生きる種族――ファンタスティック時間SF傑作選』(創元SF文庫)には、L・スプレイグ・ディ・キャンプの中篇「恐竜狩り」を収録した。むかしから好きだった小説なので、新訳できてとても嬉しい。

 新訳とわざわざ強調したのは、一字ちがいの旧訳「恐龍狩り」(船戸牧子訳)とは別のヴァージョンに基づいて翻訳したからだ。
 手元にあった原文と船戸訳をくらべたら、原文のほうは随所に手がはいっているとわかった。改訂は主に刈りこむ方向でなされており、新ヴァージョンのほうが出来がいい。
 というわけで、船戸訳に愛着はあったのだが、あえて新訳に踏みきったしだい。

 その別ヴァージョンを収録していたのが、The Best of L. Sparague de Camp (1978) である。初版はSFブック・クラブのハードカヴァーだが、当方が持っているのは、例によって同年にバランタイン/デル・レイから出たペーパーバック版である。

2013-7-16 (de Camp)

 ポール・アンダースンの序文につづき、小説14篇、エッセイ1篇、詩3篇が収録されており、最後にディ・キャンプ本人の「あとがき」がつく。
 このうち邦訳があるのは「命令」と「恐竜狩り」の2篇だけ。わが国におけるディ・キャンプの不人気ぶりを如実に表わしている。この人も彼我の評価の差がはなはだしい。
 
 原因のひとつは、1940年代のSF黄金時代を支えたスターのひとりという側面が、知識としては頭にはいっても、実感できないからだろう。ディ・キャンプのSF界デビューは1937年であり、〈アスタウンディング〉誌編集長ジョンW・キャンベル門下生としては、ロバート・A・ハインライン、A・E・ヴァン・ヴォート、アイザック・アシモフなどの先輩にあたる。
 しかも、SFを書きはじめる前からプロの作家として活動していたので、当時のSF雑誌の常連にくらべれば文章が抜群にうまく、さらに工学や歴史に関して造詣が深かったので、キャンベルの高い水準をクリアする力があった。そのためディ・キャンプは、「キャンベル厩舎のホープ」として期待され、その期待に応えたのだった。

 その好例が、本書にも収録されているエッセイ“Language for Time Travelers” (1938) だ。英語がいかに変化してきたかを概括し、未来にどう変化するかを予測して、時間旅行者が言語の障壁でどれほど苦労するかをユーモアに論じたもの。この種の考察は史上初だったらしく、ディ・キャンプの名を高らしめた。

 こうしたデビュー当初の活躍が、SF作家ディ・キャンプの評価を確立した。その証拠に本書の収録作のうち、小説7篇とエッセイは1938年から40年にかけて〈アスタウンディング〉か〈アンノウン〉に発表されている。つまり、この時期のディ・キャンプやハイラインたちの作品が、SFの新たなスタンダードを作りあげたわけだ。

 しかし、わが国では、そのスタンダードの上に築かれた1950年代SFのほうが先に紹介されたので、こうしたディ・キャンプの活躍は実感できないのだ。逆に洗練された作品のあとに読むと、泥臭く感じられるのである。

 前置きのつもりが長くなったので、収録作の話は割愛。
 ひとつだけ書いておけば、表紙絵は“The Emperor's Fan”という短篇を題材にしている。架空の中華帝国を舞台に、生き物を別世界に送る力を秘めた魔法の扇にまつわる東洋趣味ファンタシーだ。
 ダレル・K・スィートの絵は、あんまり中華風ではないので、キャンベル追悼アンソロジー Astounding (1973) 初出時にケリー・フリースが描いたイラストを紹介しておく。やっぱりフリースはいいなあ。

2013-7-16 (Emperor's)


蛇足
 L・スプレイグ・ディ・キャンプという名前は変わっているので、当初は著名作家のペンネームだと思われたらしい。ヘンリー・カットナーやL・ロン・ハバードの名前が取りざたされたそうだ。(2013年7月16日)

 

2013.07.18 Thu » 『カップ一杯の宇宙』

 編纂したアンソロジー『時を生きる種族――ファンタスティック時間SF傑作選』(創元SF文庫)の見本がとどいた。今回も鈴木康士氏が雰囲気のある表紙絵を描いてくれて、うれしいかぎりだ。

 本書に収録したミルドレッド・クリンガーマンの作品は、A Cupful of Space (Ballantine, 1961) という短篇集から選んだ。著者は主に1950年代に活躍した作家だが、フルタイムではないため作品の数は極端にすくなく、これが唯一の著書である。ちなみに、表紙絵はかのリチャード・パワーズの筆になるもの。

2013-7-14 (Cupful)

 同書には1952年から1961年にかけて発表された作品が16篇収録されている。そのうち〈F&SF〉掲載が11篇、〈コリアーズ〉掲載が2篇、〈ウーマンズ・ホーム・コンパニオン〉掲載が1篇、書き下ろしが2篇である。
 ちなみに邦訳があるのは、「無任所大臣」、「鳥は数をかぞえない」、そして今回のアンソロジーに採った「緑のべルベットの外套を買った日」の3篇(追記参照)。

 デビュー作「無任所大臣」は、平凡な老女が異星人とコンタクトし、事情がわからないまま世界を救ってしまう話としてSF史に名をとどめている。これがハートウォーミングな小品なので、そういう作風なのかと思ったら、意外にも薄気味の悪い話、不穏な空気をかもしだす話が多かった。ホラーとまではいかず、むしろ〈奇妙な味〉に近い作風である。

 集中ベストは、前に紹介したことのある“A Red Heart and Blue Roses”か、SF版ロマンティック・コメディ「緑のベルべットの外套を買った日」だろうが、それにつづくのが“The Gay Deceiever”という短篇。こんな話だ――

 旅まわりの芸人で、笛を吹きながら、風船を売って歩く老人がいる。もちろん、子供に大人気で、行く先々で子供にとり巻かれる。本人も子供好きらしく、売り上げの見こめないスラム街へ足をのばし、風船を無料で配ることさえある。だが、老人があとにした街では、かならず事故にあった子供の死体が発見されるのだ。捨てられていた冷蔵庫に閉じこめられた形で……。

 老人にあこがれて職を辞し、助手をつとめている若い女性の視点で書かれているのがミソ(つまり、最初のうちは老人が善意のかたまりに思える)。ハーメルンの笛吹きの伝説を下敷きにしており、なんともいやな後味を残す一篇だ。

 このほか、天使のように可愛いのに、凶暴きわまりない幼女が出てくる“The Little Witch of Elm Street”も面白い。この子は三輪車に乗って人に忍びより、うしろから轢くのが大好きなのだ。(2013年7月14日)

【追記】
「緑のべルべットの外套を買った日」は、橋本輝幸と当方の共訳である。橋本氏は、海外SF紹介者としてすでにめざましい活躍をしているが、翻訳はこれがデビュー作となる。共訳者としては僭越だが、新鋭の門出を祝いたい。

2013.07.17 Wed » 『白き狼の物語』

【前書き】
 以下は2005年12月23日に書いた記事である。誤解なきように。


 ひょんなことから、エルリックものの短篇“The White Wolf's Song” (1994) を訳すことになった。エルリックとは、もちろん、マイクル・ムアコックが生んだ〈剣と魔法〉史上最大のアンチ・ヒーローのことである。

 じつは7年前にも別口の話があって、そのとき訳しておいたのだが、さる事情でお蔵入り。それが陽の目を見ることになったのだ。
 というわけで、旧訳に手を入れるだけでいいと思っていたのだが、世の中それほど甘くはない。旧訳のあまりのひどさに愕然として、全面的に訳しなおしたしだい。自分でいうのもなんだが、かなり良くなっているはずである。
 それでも、文章によっては、一字一句変わっていないところもあり、われながら苦笑せざるを得なかった。

 それはさておき、そのテキストに使ったのが、オリジナル・アンソロジー Tales of the White Wolf Edited by Edward Kramer (Borealis, 1994) である。

2005-12-23(Tales of White Wolf)

 小谷真理さんにアメリカ土産としていただいたもの。あらためてお礼申しあげます。

 これはエルリック・トリビュートのアンソロジーで、ムアコック本人のほかに20人と3組(2人で共作)の作家がエルリックにまつわる作品を寄せている。
 顔ぶれは有名無名いろいろだが、タッド・ウィリアムズ、ナンシー・A・コリンズ、カール・エドワード・ワグナー、コリン・グリーンランド、ニール・ゲイマンなどは、わが国でも知られているだろう。

 全部を読んだわけではないが、読んだなかでいちばん面白かったのはゲイマンの“One Life Furnished with Early Moorcock”という短篇。ストーリーというほどのものはなく、エルリックに熱中する12歳のファンタシーおたく少年の日常がスケッチされる。おそらくゲイマンの自伝的要素が強いのだろうが、同じ1960年生まれの身としては、他人ごととは思えない。読むと切なくなるような佳品。余談だが、ゲイマンがユダヤ系とは知らなかった。ひとつ利口になった。

 つぎに面白かったのは、ワグナーの“The Gothic Touch”だろうか。ワグナーのアンチ・ヒーロー、ケインがエルリックとムーングラムを呼び寄せて、ゴシックでSF的ともいえる冒険を繰り広げる一篇。楽しんで書いているのが伝わってくるのがいい。

 肝心のムアコックの短篇は、2月に拙訳が世に出るので、そのときお読みください(追記参照)。(2005年12月23日)

【追記】
「白き狼の歌」という訳題で『文藝別冊 ナルニア国物語――夢と魔法の別世界ファンタジー・ガイド』(河出書房新社、2006)というムックに掲載された。このムックは映画『ナルニア国物語 第一章:ライオンと魔女』の公開に合わせて出たものだが、《ナルニア国物語》のガイドブックというわけではなく、前半《ナルニア》関連、後半異世界ファンタシー全般という構成になっており、興味深いインタヴューや論考が掲載されている。
 さらにムアコックの短篇のほか、オースン・スコット・カードとジェイン・ヨーレンの本邦初訳短篇も載っている。あまり知られていないようなので特記しておく。

 ちなみに、「白き狼の歌」は、エルリックが《第二エーテル》の世界に迷いこむ話であり、厳密にいえば《第二エーテル》シリーズに属す。その証拠に“The Black Blade's Summoning”と改題のうえ、同シリーズ第二巻 Fabulous Harbours (1995) に収録されている。

2013.07.16 Tue » 『天使たちの戦い』

【承前】
 《第二エーテル》シリーズは Blood: A Southern Fantasy (1995), Fablous Harbors (1995), The War amongst the Angels (1996) の三作から成っている。つまらない本の話を長々とする気はないので、ここではもっとも重要な The War amongst the Angels だけとりあげる。初版は英国ミレニアム社のハードカヴァーだが、当方が持っているのは翌年米国のエイヴォンから出たハードカヴァーである。

2007-6-95 (War)

 本書の末尾にはこう記されている――

the end of an autobiographical story by Michael Moorcock

 だが、本書はふつうの意味での「自伝的小説」とはほど遠い。なにしろ主人公は、1820年代のロンドンに生まれたマーガレット・ローズという女性。英国貴族ムアコック卿とジプシーの母のあいだに生まれた彼女は、ドイツのフォン・ベック家に嫁ぎ、まもなく離婚したが、以後もローズ・フォン・ベックと名乗りつづける(ちなみに、彼女には小説を書いているマイクルという頭のおかしい叔父がいる)。
 この女性がひょんことから鉄道を襲う盗賊団に身を投じ、さらには多元宇宙を股にかけた〈法〉と〈混沌〉の戦いに巻きこまれ、〈法〉の圧制を挫こうとする、というのが骨子。

 シリーズの題名になっている「第二エーテル」というのは、宇宙の〈単一〉化を押し進める〈法〉の圧制を嫌った者たちが創った「第二の宇宙」のこと。これを創った者たちは、〈混沌の技術者たち〉と呼ばれている。
 いっぽうローズは、多元宇宙を自由に行き来する能力を持つフガドル(遊戯者)という人種に属している。

 ローズにはサム・オークンハーストという恋人がいるが、彼の率いる盗賊団の冒険を描いたのがシリーズ第一作 Blood 。彼らの活躍は、べつの多元宇宙では娯楽読み物として刊行されており、すでに千四百章を軽く超している。同書はメタフィクションの形式でこの両者を記述しており、この趣向は第三作にも一部引き継がれている。

 さて、本書ではローズの波乱に満ちた半生が語られるわけだが、その形式が凝っている。メインはローズ本人の一人称だが、すでに記した通り、ローズやサムの冒険を描いた娯楽読み物の断片が混じったり、ほかの人物の一人称や三人称の記述が混じるのだ。
 野心的であることは認めるが、効果をあげているとは思えず、むしろ混乱を助長するばかり。とりわけ、一人称が入り交じると、なにがなんだか分からなくなる。意図的に混乱させようとしているとも思えないので、性格の書き分けができてないからだろう。

 もうひとつ感心しないのは、悪い意味でフェミニズム色が強いこと。版権表示を見ると、このシリーズは夫人リンダとの共作になっている。ということは、本書の内容の多くはフェミストである夫人に多くを負っているのだろう。ムアコック自身がその思想を消化しきっていないため、底が浅くなっていると思われる。

 要するに、本書はムアコック自身の精神遍歴の小説化である。だが、みずからの内面を分析し、図式化しすぎたため、小説としては薄っぺらいものになってしまった。これが当方の感想である。(2007年6月9日)

2013.07.15 Mon » 《第二エーテル》シリーズ

【承前】
 1960年代カウンターカルチャー世代のムアコックにとって、「混沌=エントロピー」であり、エントロピーの増大により宇宙/世界/社会/人生が崩壊していくのをいかに食い止めるかがテーマだった。したがって、混沌が勢力をました状況で〈法〉のために戦い、〈均衡〉をとりもどす話ばかり書いていた。

 しかし、本人は反体制の人なので、心情的には〈混沌〉に与しており、そのあたりの葛藤が作品に緊張と陰影をもたらしていた。《エルリック》や《コルム》が傑作となった所以である。

 ところが《第二エーテル》の場合、この関係が逆転している。宇宙に〈単一〉の価値観を押しつけ、すべてを一元的に管理しようとする〈法〉に対して、〈混沌〉、すなわち〈多様性〉がささやかな反逆を試みるというのが、その骨子だからだ。

 ここには80年代の政治状況が透けて見える。サッチャー政権は左翼とそのシンパである知識人をねらい撃ちにする政策をとり、言論の弾圧や新たな課税でぎゅうぎゅうに締め付けた。ムアコックの友人も投獄されたらしい。こうした状況に異を唱えるために《第二エーテル》シリーズは書かれたと思しい。この場合の〈法〉は警察国家とほぼ同義である。

 だが、テーマや主張が立派だからといって、すぐれた文学作品が生まれるわけではない。むしろムアコックは、主張をストレートに出しすぎて墓穴を掘った感がある。

 もうひとつ問題なのは、自分の作品に対して、ムアコックが自覚的になりすぎた点だ。
 これまでのムアコックの作品は、無意識のうちに書かれた自伝であり、本人にもよくわかっていないドロドロしたものが、ファンタシーの形で表現されていた。
 ところが50代にはいって知恵がついたのか、ムアコックは自分の小説技法と精神遍歴を分析し、それを批判的に小説化しようとした。それが《第二エーテル》シリーズだ。したがって、このシリーズはメタフィクションと一種の自伝として書かれている。
 だが、できあがった作品は、非常に図式的で薄っぺらなものになってしまった。すくなくとも、当方には読むのが苦痛であったのだ。

 長くなったので、つづきは明日。(2007年6月8日)

2013.07.14 Sun » 『ギャラソームの戦士』解説

 マイクル・ムアコックの新版《ブラス城年代記》第二巻『ギャラソームの戦士』(創元推理文庫)が届いた。
 本書には堺三保氏が新しく解説を寄せていて、これが充実した内容。近年のムアコック作品における特徴を概説し、それを作品史のなかに位置づけたもので、非常に啓発的である。一読の価値があるので、旧版をお持ちのかたも是非目を通されたい。

 とはいえ、些細な瑕疵もあるので、ちょっとそのことを書いておく。
 まず二箇所出てくる《フォン・ベック》シリーズ第一作の表題だが、『墜ちた天使』ではなく、『堕ちた天使』が正しい。まあ、こういうケアレス・ミスは当方もしょっちゅうやるので非難できる筋合いではないが、この種のまちがいは、だれかが指摘しないと永久にくり返されるので、注意をうながしておく。

 つぎに未訳の《第二エーテル》シリーズについて、「現実を操作しようと暗躍する《混沌》の技術者たちと戦い、その果てには堕天使ルシファーと対決する」とあるが、この記述は誤りとまではいえないにしても、誤解を招く。というのも、このシリーズにおける敵(あるいは悪役)は《混沌》ではなく、もっぱら《法》の側だからだ。

 ムアコックによれば、《法》は人間や社会にとって必要なものだが、行きすぎると警察国家や超管理社会を生みだし、人間の自由や創造性を圧殺する。
 いっぽう《混沌》は創造性の源泉だが、行きすぎればアナーキズムやテロリズムを生みだし、人間にとって害悪となる。
 したがって、両者のバランスをどうとるかが問題で、これがムアコックが一貫して追及しているテーマである。

 《第二エーテル》シリーズは、90年代のムアコックがこの問題に取り組んだ産物だが、その結果はあまり芳しいものとはいえなかった。すくなくとも、当方はこのシリーズに失望して、ムアコックの作品を追いかけなくなった。
 すでに長くなっているので、この点については項をあらためる。これから本を引っぱりだしてくるので、つづきは明日にでも。(2007年6月7日)

2013.07.13 Sat » 『死は障害に非ず』

【前書き】
 いい機会なのでマイクル・ムアコック関係の記事をつづける。以下は2006年11月25日に書いたものである。


 この前マイクル・ムアコックの新版《ルーンの杖秘録》第三巻『夜明けの剣』(創元推理文庫)に解説を書いた。そのとき主な資料にしたのが、コリン・グリーンランドによるロング・インタヴュー Death Is No Obstacle (Savoy, 1992) だった。ちなみに、アンジェラ・カーターの序文つき。

2006-11-25 (Death)

 もともとはムアコックが創作指南書を書く予定だったのだが、ちっとも書かないので、インタヴューに変わったらしい。聞き手のグリーンランドは、ムアコックを中心にしたニュー・ウェーヴ論でデビューした人であり、ムアコックとの信頼関係も厚く、うまく本音を引き出している。

 《エルリック》シリーズとの関連で出てくるので、こんどの解説には書かなかったが、同書においてムアコックが、〈剣と魔法〉もの長篇の書き方を明かしている。それによると――

1 6万語(約500枚)を4部に分ける。
2 各部を6章に分ける。
3 4ページ毎に事件が起きるようにする。
4 世界を救うのに六日しかないことにする。
5 舞台となる世界の地図を描く。
6 アクションの詳細を練る。
7 すわって書きはじめる。

 これで一丁できあがり。ムアコックは一日に1万5千語のペースで書いていたという。とすると『剣の騎士』のような傑作が、4日で生まれたことになるから、驚くしかない。

 もっとも、〈剣と魔法〉については全7部のうちの1部があてられているにすぎない。自作のSFや主流文学についてもムアコックが縦横に語っているが、その多くは未訳なので、本書の翻訳を出してもあまり意味はない。もっとも日本の読者の大半は、ムアコックの作品ではなく、ムアコックの〈剣と魔法〉だけが好きなのだから、出しても興味を示さないだろうが。(2006年11月25日)

2013.07.12 Fri » 続・ムアコックのファッション

【承前】
 先日ムアコックの小説に出てきた「パンタロン」は、70年代初頭イギリスの風俗だろうと書いたが、そうではなくて、むかしの西洋男性が履いていたダブダブのズボンではないか、と酒井昭伸さんからご指摘を受けた。
  
 作中の記述を見ると、ジャリー・ア・コネルは膝までのブーツを履いている。とすれば、ズボンの裾が見えるわけがない。したがって、当方の書いたことはまちがいだった。ここに謹んでお詫びと訂正をする。みなさま、申しわけありませんでした。

 いいわけになるが、当方が勘違いしたのは、「ジャリー=ムアコックの分身」という思いこみが強かったから。そういうわけで、ジャリー・ア・コネルと聞くと、下に載せた写真のようなイメージが思いうかぶのだ。

2007-12-13(Moorcock)

 鍔広の帽子、道化師風のジャケット、パンタロン、ブーツ。これで肩に猫を乗せていたら、ジャリーその人に見える――というのは当方の思いこみで、小説の記述とはちがうのでした。勝手な思いこみは駄目だねえ。妄言多謝。(2007年12月13日)

2013.07.11 Thu » ムアコックのファッション

【前書き】
 昨日の記事にムアコックが組んでいたロック・バンドの名前がチラリと出てきた。それに関する記事をご覧においれるが、これは当方の勘違いに終始した文章であった。まったく面目ない。つぎの記事で訂正するが、その前提としてまず誤りをお読みください。ちなみに、2007年12月6日に書いたものである。誤解なきように。


 今日マイクル・ムアコックの《コルム》シリーズを読んでいるさいちゅうだという人としゃべっていたら、作中に「パンタロン」という言葉が出てきてびっくりしたといわれた。ジャリー・ア・コネルの台詞なので、70年代初頭のイギリスの風俗をいったのだろ。
 
 まあファンタシーの書き手としてのムアコックしか知らない人からすればそうかもしれないが、この人は楽屋オチに近い自伝的要素を作中に入れておくのが習いなので、それは自分や仲間のファッションを描いたものであり、意外でもなんでもないと答えておいた。

 で、気づいたのだが、当時のムアコックがどんな恰好をしていたか、わが国ではまったく知られていない。じつは写真がたくさん残っているので、それを紹介することにした。

2007-12-6(Moorcock 3)

2007-12-6(Moorcock 2)

 上にかかげたのは、ムアコックがやっていたロック・バンド、マイクル・ムアコック&ザ・ディープ・フィックスのCD Roller Coaster Holiday のジャケットと、ブックレットに載っていた写真である。
 髭のおじさんがムアコック。1975年に撮影された写真。

2007-12-6(Moorcock 1)

上はザ・ディープ・フィックスより前のバンド、ザ・ベリーフロップスの写真。1964年ごろに撮影されたもの。帽子をかぶっているのがムアコックで、その隣がチャールズ・プラット。右上のセーターの人がラングドン・ジョーンズ。(2007年12月6日)

【追記】
 上述のとおり、この「パンタロン」の解釈はまったくの誤解。ほんとうは「太腿の部分がふくらんでいて、膝から下が細くなった形のズボン」だった。酒井昭伸氏よりご指摘を受けて、つぎの記事で訂正した。

2013.07.10 Wed » 『時を生きる種族』

【承前】
 アンソロジー『時を生きる種族』の表題作を表題作にしたのが、マイクル・ムアコックの短篇集 The Time Dweller (Rupert Hart-Davis, 1969) だ。ただし、当方が持っているのは、71年にメイフラワーから出たペーパーバック版の3刷(1975)である。

2013-7-5 (Time)

 収録作はつぎのとおり。例によって発表年と推定枚数も付す――

1 時を生きる種族  '64 (50)
2 夕暮れからの脱出  '65 (75)
3 The Deep Fix  '64 (150)
4 The Golden Barge  '65 (35)
5 Wolf  '66 (20)
6 Consuming Passion  '66 (25)
7 The Ruins  '66 (20)
8 フェリペ・サジタリウスの快楽の園  '65 (35)
9 山  '65 (30)

 このうち3、7、8、9はジェイムズ・コルヴィン名義で、4はウィリアム・バークリー名義で発表された。

 発表年を見ればわかるが、いわゆるニュー・ウェ-ヴ運動まっただなかのころの作品。J・G・バラードの影響を強く受けた作品群である。寓話的というか、象徴主義的というか、ときに難解な印象をあたえる。
 その好例が8と9で、たぶんこの方向性におけるムアコックの最高傑作だろう。

 いっぽう、連作を構成する1と2は、もうすこし伝統のSF寄り。はるかな未来、滅びゆく地球を舞台に、われわれとはまったくちがう時間概念を持つように教育され、「時を生きる種族」となった者たちの物語だ。
 クラーク・アシュトン・スミスの《ゾシーク》シリーズやジャック・ヴァンスの《滅びゆく地球》シリーズの似た味わいがあり、当方が偏愛する種類の小説である。とはいえ、冒険よりは思弁に重点が置かれており、ニュー・ウェーヴの仕掛け人ならではの野心がうかがえる。
 ちなみに、表紙絵は1を題材にしており、アザラシに似た動物に乗っているのが主人公。ナメクジみたいなのは、「沼蛭」といって、新たな地球の覇者である。

 本書で試された方向性は、作者の70年代を代表する遠未来デカダン時間SF《時の果てのダンサー》シリーズに結実するが、わが国にほとんど紹介されていないのが残念だ。

蛇足
 3の題名は、のちにムアコックが組む3人組ロック・バンドの名前にも使われた。
 4は若書きの寓話だが、のちに長篇化された。(2013年7月5日)


2013.07.09 Tue » 『時間から出た物語』

【承前】
 つぎにとり寄せたのが、バーバラ・アイアスン編の Tales out of Time (1979, Faber & Faber) というアンソロジー。イギリスの図書館から出た廃棄本である。

2012-12-21 (Tales)

 序文や解説のいっさいない本だが、ラインナップや、アイアスンが編んだべつの本の情報と考えあわせると、どうやらヤング・アダルト向けの本のようだ。
 まず目次を書き写しておく。例によって、発表年と推定枚数を付す――

1 ポーリーののぞき穴  ジョン・ウィンダム '51 (60)
2 去りにし日々の光  ボブ・ショウ '66 (25)
3 時に境界なし  ジャック・フィニイ '62 (40)
4 アリスの教母さま  ウォルター・デ・ラ・メア '25 (65)
5 もののかたち  レイ・ブラッドベリ '48 (45)
6 Time Traveling  H・G・ウェルズ 1895 (15) *「タイム・マシン」からの抜粋
7 Blemish  ジョン・クリストファー '53 (25)
8 愛の手紙  ジャック・フィニイ '59 (35)
9 フォークナー氏のハロウィーン  オーガスト・ダーレス '59 (25)
10 Phantas  オリヴァー・オニオンズ '10 (45)
11 新加速剤  H・G・ウェルズ '01 (40)
12 Trying to Connect You  ジョン・ロウ・タウンゼンド '75 (35)
13 雷のような音  レイ・ブラッドベリ '52 (35)
14 死線  リチャード・マシスン '59 (15)

 4と12が児童文学畑の作品である。

 定番に珍しい作品を合わせた意欲的なラインナップ、といっていえないことはないが、フィニイ、ブラッドベリ、ウェルズと2篇ずつ選ばれている作家が3人もいるとあっては、やや安易な感は否めない。

当方のアンソロジーの選択候補になったのは7と10。結論からいえば、どちらも駄目だった。

 7はファースト・コンタクトもの。未来の地球に銀河連盟からの大使がやってきて、都市化・機械化の進みすぎた文明に失望するが、むかしながらの生活様式を守る変人たちの村に行きあたって……というお話。手塚治虫の漫画みたいだ。これは時間ものではなく、このアンソロジーのなかでは完全に浮いている。作品もたいしたことないが、それ以上に編者の選択に首をひねった。

 10は難破船にタイムスリップをからめた海洋奇談。かなり癖のある文章で、遭難者の錯乱した心理が克明に描写される。が、タイムスリップの仕掛けそのものは他愛ない。労多くして実りすくなしだ。

 せっかくなので12も読んでみたら、これは拾いものだった。
 恋人とひどい喧嘩をした青年が、なんとか彼女に連絡をつけようとする。いま謝らないと、彼女はローマへ飛んでいってしまい、今生の別れとなるからだ。
 しかし、青年はボートで運河を航行しており、あたりに電話というものがない。ようやく荒野のただなかに電話ボックスを見つけたが、回線がどうかしているらしく、なかなかつながらないし、つながってもトラブルつづきで恋人と話ができない。しかも、事故があったから電話をゆずってくれという人たちが、入れ替わり立ち替わりやってくるのだ。見たところ、事故など起きていないのだが……。
 これも一種のタイムスリップものだが、青年の焦燥感が如実に伝わってくる。さすがに『未知の来訪者』(岩波書店)という時間ものSFを書いた作者だけのことはある。
 もっとも、携帯電話が普及したいまとなっては、話そのものが成立しなくなっているかもしれないが。(2012年12月21日)


2013.07.08 Mon » 『時間内の旅』

【前書き】
 今月の20日ごろ、拙編の新しいアンソロジーが出る。題して『時を生きる種族――ファンタスティック時間SF傑作選』(創元SF文庫)。版元のサイトでは、書影も収録作も公開されているので、とりあえずこちらをご覧ください(と書いたあと、「編者あとがき」も版元サイトに掲載された)。
 すでに当方の手を離れていて、あとは刊行を待つばかりだが、せっかくの機会なので、収録作関連の記事を公開する。


 企画中の時間SFアンソロジーだが、あいかわらず作品選びをつづけている。というのも、編集部と話し合った結果、全篇「本邦初訳&単行本初収録」作品で固めることになったからだ。
 そのためロバート・A・ハインライン「輪廻の蛇」とロッド・サーリング「フライト33 時間の旅」を見送ることになり、代わりの作品を探しているのである。

 そういうわけでロバート・シルヴァーバーグ編の時間SFアンソロジー Trips in Time (1977) をとり寄せた。初版はトマス・ネルスンから出たハードカヴァーだが、当方が買ったのは2009年にワイルドサイド・プレスから出たトレード・ペーパー版である。

2012-12-19 (Trips)

 収録作はつぎのとおり。例によって発表年と推定枚数も添えておく――

1 限りなき夏  クリストファー・プリースト  '76 (55)
2 王様のご用命  ロバート・シェクリイ  '53 (30)
3 Manna  ピーター・フィリップス  '49 (75)
4 The Long Remembering  ポール・アンダースン  '57 (35)
5 過去を変えようとした男  フリッツ・ライバー  '58 (20)
6 聖なる狂気  ロジャー・ゼラズニイ  '66 (20)
7 マグワンプ4  ロバート・シルヴァーバーグ  '59 (55)
8 Secret Rider  マータ・ランドール  '76 (70)
9 宇宙シーソー  A・E・ヴァン・ヴォート  '41 (35)
 
 編者はアンソロジストとして定評があるが、文学的野心に満ちた創作とはちがって、SFファン気質をまるだしにするところに特色がある。本書もその例にもれず、じつに手堅いアンソロジーになっている。このまま訳したら、初心者向けのいい入門書になりそうだ。

 それはさておき、こちらの作品選びの話にもどすと、上記に加え、さらに無版権という条件がつくので、選択の対象となるのは3、4、5、7の4篇である。

 じつは7が意中の作品だった。ユーモアものがほしいところだったし、「輪廻の蛇」がラインナップからはずれたので、時間ループものが許されるようになったからだ。
 そこで原文で読みなおし、これは復活させる価値があると確信したので、当方のアンソロジーに収録することに決めた。既訳は浅倉さんの手になるものなので、なんの問題もない。
 
 4にも期待をかけていたのだが、こちらはいまひとつだった。過去の人間に精神を乗り移らせる形での時間旅行をあつかったもので、迷信に満ちみちた原始人の野蛮な生活が描かれる。とにかく、原始人に関するロマンティックな幻想を打ち砕くことを目的としており、読んでいてつらい。

 5は《改変戦争》シリーズに属すアイデア・ストーリー。語りのうまさで読ませる作品だが、これを復活させるよりは、同シリーズに属す未訳作品を採ったほうがいい。

 3は中世の修道院に出没する幽霊と時間旅行をからめた作品。前に読んでまったく面白くなかったので、今回は読みなおさなかった。

 というわけで、「マグワンプ4」を選べたのでよかった。(2012年12月19日)


2013.07.07 Sun » 『ヴァルハラの行進者たち』

 天使の贈り物その11。つまり、代島正樹さんにいただいた本である。

 ロバート・E・ハワード Marchers of Valhalla (Donald M. Grant, 1972) は、本文121ページの小型ハードカヴァー。これは初版で、限定1654部。のちに1篇を増補した普及版が出たそうだ。

2012-11-8 (Valhara)

 初版にはロバート・ブルース・アチスンという人の白黒イラストが6枚はいっているが、悲しくなる出来なので紹介しない。

 内容のほうはというと、ハワードの生前には未発表だった小説2篇のカップリング。ともに本書が初出であり、前世の記憶をあつかっている点で共通している。

 表題作は、ジェイムズ・アリスンという不具の現代人が、前世を回想するという形式で書かれている。その記憶のなかの彼はヒアルマーという名の戦士であり、超古代に北欧ノルドハイムから北米へ流れてきた部族の一員である。この放浪の戦士団が、いまのテキサスに当たる地でレムリア人の子孫が築いた都市ケミュに遭遇し、いったんは闘いになるが、和議が成立する。というのも、ケミュ側は、敵対する蛮族との闘いにノルドハイム人の力を借りたいからだ。
 いっぽうヒアルマーは、女神イシュタルに仕える巫女で、北欧人のアルーナという女に惹かれていく……。

 本篇は1933年に〈マジック・カーペット〉誌に投稿されたが、没になったという。まあ、東洋歴史冒険小説専門を標榜する雑誌のカラーにはまったく合わないので、没もしかたないだろう。
 一種の枠物語になっていて、その枠がいかにもぎこちないが、全体としては、それほど悪い出来ではない。特に戦闘シーンは圧巻。

 さて、ジェイムズ・アリスンの名前でピンときた人もいるだろうが、傑作「妖虫の谷」に先立つ作品である。この作品が没になったので、ハワードは同じ形式でべつの物語を紡ぎあげたわけだ。もっとも、部族の放浪の歴史など、一部の要素を流用しているが。

 ちなみに、そのあと「恐怖の庭」が発表されたので、《ジェイムズ・アリスン》ものは完成作が3作ということになる(ほかに未完の断片が5つある)。
 
 もうひとつの作品は“The Thunder-Rider”と題されている。
 こちらはコマンチ族の血を引くジョン・ガーフィールドという現代人が語り手。白人社会に溶けこみ、白人と変わらぬ暮らしを送っているが、ときおりインディアンの血、戦士の血が騒ぎだす。放っておくと犯罪者になりそうなので、コマンチ族の治療師の指導のもと、前世を思いだし、その人生を生きなおす儀式に臨む、というのが外枠。

 いまガーフィールドとなっている魂は、輪廻転生をくり返しており、何人分もの記憶がよみがえってくる。そのなかでひときわ強烈なのが、16世紀に生きたアイアン・ハートという戦士の記憶だった。ポーニー族と闘っていた彼は、そのさなか、突如としてあらわれた男たちに敵ともども捕らわれてしまう。謎の男たちはアステカの血を引いているらしく、非常に残忍な性質を帯びていた……。

 この簡単な要約からもわかるとおり、《ジェイムズ・アリスン》ものを徹底的にアメリカ化(西部劇化)した作品といえる。使われているタイプ用紙の種類から、ハワードの死の直前に書かれたものと判明している。このころハワードは、怪奇幻想小説の執筆をやめ、ウェスタン一本で行くと決めていたが、それでもこういう作品を書かずにはいられなかったわけだ。
 ハワードは輪廻転生を本気で信じていたそうだが、それもうなずける。

 残念なのは、一応完成しているものの、明らかに未定稿である点。外枠であるべき部分が長すぎるのに対し、最後のほうは駆け足もいいところで、シノプシスに近くなっている。ハワードが本篇をもっと肉付けしていたら、幻想ウェスタンの秀作が生まれていたはずなので、惜しいというほかない。(2012年11月8日)


2013.07.06 Sat » 『給料日』

 天使の贈り物その10は、ロバート・E・ハワードのパンフレット Pay Day (Cryptic Publication, 1986) だ。

2012-7-8 (Pay Day)

 これもISBNのついていない私家版で、表紙を入れて全24ページ。版元クリプティック、編集ロバート・M・プライス、表紙絵スティーヴ・フェビアンという点は昨日紹介したパンフレットとおなじである。ちなみに、目次ページにロバート・M・プライスの署名がはいっている。

 さて、本書には完成した短篇が8篇収録されている。ペラペラの小冊子に8篇だから、ひとつひとつが極端に短いのは容易に想像がつくだろう。いちばん長いもので4ページ、残りはすべて2ページ以下だ。

 これも半ページしかないプライスの序文によると、これらは「実話」と銘打った短篇を載せるパルプ誌向けに書かれたものとのこと。当方も現物を見たことはないのだが、「事実は小説より奇なり」タイプの「実話」を満載した娯楽雑誌はかなり人気があったらしい。まあ、わが国におけるコンビニ本の隆盛を見れば、うなずける話ではある。

 では、その「実話」とはどういうものなのか。2ページしかない表題作を紹介しよう。

 ビル・クラットはうだつのあがらない中年男。だが、今日ばかりは喜ぶ理由があった。給料があがったのだ。これで苦労をかけている妻にピアノを買ってやれる。あるいは、車だって購入できるかもしれない。
 妻のアガサは家計をささえるため、速記者として働いている。彼女のボス、ジョー・スネックは権力も金もあるタイプで、ビル・クラットとしては、スネックがアガサにちょっかいを出すのではないか、と内心おだやかではない。
 さて、喜び勇んでクラットが家に帰ると、アガサがベッドに横たわって泣いている。そして「ジョー・スネックに辱められたの! 彼に……辱め……られたの……あんなやつ……憎い……」
 頭に血が昇ったクラットは、スネックのオフィスに乗りこむ。
「おまえは金持ちだから、罪のない女を辱めてもお咎めなしだと思っているんだろう。そうはいくか!」
 問答無用で鉛の弾丸をお見舞いし、居合わせた簿記係に「おれの住所は知っているな。逃げも隠れもしないぞ」と捨て台詞を残し、クラットは意気揚々と帰宅する。
「アガサ、ところでジョーになにをされたんだ?」
「わたしが書いた詩を読まれたの。あの男、笑い死にしそうだといって……こんなゴミを書いている暇があったら仕事しろ、さもないとクビだぞですって」

 もうすこしましな話もあるが、わざわざ紹介する気はおきない。まあ、こういう水準の「実話」が載っていると思ってください。

 収録作すべてがハワードの生前は未発表に終わった。が、うち2作は1970年代なかばにファンジンに掲載された。そういうわけで、6篇が本書に初出である。(2012年7月8日)

2013.07.05 Fri » 『腕っぷし自慢の探偵』

 天使の贈り物その9は、ロバート・E・ハワードのパンフレット Two-Fisted Detective (Cryptic Pub., 1984) だ。

2012-7-7 (Two-Fisted)

 これもISBNのない私家版で、限定500部。四六判で、表紙をふくめ全76ページ。表紙絵はスティーヴ・フェビアンが描いている。

 版元は編集にあたっているロバート・M・プライスのプライヴェート・プレス。《ザ・クロムレック・シリーズ》第2巻と書いてある。
 ロバート・E・ハワード関連ファンジンで〈クロムレック〉というのがあり、スタッフの顔ぶれを見れば、両者に関係があるのは明らかだが、くわしいことは不明。詳細をご存じの方がいたら教えてください。

 さて、本書は表題からわかるとおり、ハワードの探偵小説を集めたもの。それも頭脳よりは腕力にものをいわせるタイプで、当時流行していた通俗ハードボイルド小説の線をねらったものだ。

 ハワードが探偵小説に手を染めたのは、純粋に経済的理由からだった。大恐慌のあおりでパルプ雑誌がバタバタとつぶれたり、刊行ペースを落とすようになったりして、ハワードの収入は激減した。そこでハワードは、エージェントを雇って、これまで縁のなかった市場に売りこみを図ることにした。そのエージェントがパルプ小説家あがりのO・A・クラインで、クラインは探偵小説やお色気ものの執筆をハワードに薦めた。

 その結果、ハワードのタイプライターから生まれたのが、ウィアード・メナス(残虐味の強いサスペンス小説。いまでいうスプラッタ・ホラーに近い)、スパイシー(お色気もの)、探偵小説といったジャンルに属す作品だった。

 だが、ハワードは探偵小説を嫌っており、書くのも不得手だった。当然ながら売れ行きは芳しくなく、ハワードはすぐにこのジャンルに見切りをつけた。のちに「読むのも耐えられないのだから、ましてや書くなんて」と吐き捨てている。
 
 というわけで、本書にはマーク・C・セラシーニとチャールズ・ホフマンによる序文のほか、ハワードの生前には未発表に終わった作品3篇と、未完成作品の梗概1篇がおさめられている。すべて本書が初出である。

 そのうちの2篇と梗概は、タフガイ探偵スティーヴ・ハリスンを主人公とするシリーズもの。ハリスンは、名前の明らかにされない港町を根城にする探偵で、荒っぽい捜査で知られている。最大の敵は、謎の中国人が指揮する犯罪組織だ。

 と書けばおわかりのとおり、当時絶大な人気を誇ったサックス・ローマーの《フー・マンチュー》シリーズの亜流。ハワードの名誉のために、こういうにとどめよう――すなわち、ハリスンの行く先々で死体がころがり、事件を解決したいのか、大きくしたいのかよくわからない、と。

 残る1篇は、ブッチ・ゴーマンとブレント・カービイという探偵コンビが主人公。ゴーマンはテキサス出身の大男で、カービイは中肉中背のアーバン・ボーイ。なんだか《ファファード&グレイ・マウザー》シリーズみたいだ。
 もっとも、主人公がちがうだけで、話の中身は《スティーヴ・ハリスンン》ものと大同小異。エジプト帰りの謎の大富豪、彼をつけねらうイギリス人、アフリカから来た暗殺団といった連中が登場し、数十年前の秘密が暴かれる。もちろん、死人がつぎつぎと出る。

 ちなみに、おなじコンビが活躍する小説はもう1篇あるが、こちらも売れ口がなかったそうだ。(2012年7月7日)

2013.07.04 Thu » 『フランスに捧げる剣』

 天使の贈り物その8は、ロバート・E・ハワードの Blades for France (George Hamilton, 1975) だ。これも新しく譲ってくださったパンフレットのうちの一冊。

2012-7-6 (Blade 1)

 やはり短篇1本を小冊子にしたもので、ISBNのない私家版だが、この前紹介したパンフレットよりは、だいぶ本格的なものになっている。

 というのも、表紙カヴァーがついており、生前のハワードと親交のあったE・ホフマン・プライスが序文を寄せているからだ。ちなみに、スティーヴ・フェビアンが表紙をふくめ3枚のイラストを描いており、これも素人臭さを感じさせない要因となっている。資料によると、限定300部らしい。

2012-7-6 (Blade 2)
2012-7-6 (Blade 3)

 A5判よりちょっと大きいサイズで、全36ページ。そのうちプライスの序文は2ページで、残りはハワードの短篇(邦訳して60枚くらい)。女剣士《ダーク・アグネス》シリーズの第2作で、ハワードの生前には未発表に終わり、これが初出となった。

 ずいぶんむかしに別の本で読んだきりなので、内容は忘却の彼方だが、相棒エティエンヌ(男の剣士で犯罪者すれすれの無頼漢)と旅をつづけるアグネスが、フランス国王を標的にした陰謀に巻きこまれる話だったと思う。超自然の要素はまったくない歴史冒険小説である。

 余談だが、ハワードは強い女剣士が、強い男の剣士と同格でパートナーになるという設定を好んだ。ヴァレリアとコナンがそうだし、トルコ軍のウィーン包囲を背景にした歴史冒険小説“The Shadow of the Vulture”の主人公コンビ、赤毛のソーニャとゴットフリート・フォン・カルムバッハがそうだ。
 病弱の母親がいたから、その補償作用だという説もあるが、ハワードの胸中はいかなるものだったのか。興味深いところだ。

 さらに余談だが、マーヴェル・コミックス版《コナン》シリーズの人気キャラクターで、ブリジッド・ニールセン主演の映画まで作られた女剣士レッド・ソーニャ(Red Sonja) は、上記の赤毛のソーニャ(Red Sonya) とはまったくの別人。
 前者は《コナン》シリーズに出てくるヴァレリアとベーリトを混ぜあわせたうえに、シリーズ外の作品から名前を借用してできあがったコミックス版オリジナルのキャラクターなのだ。この点を誤解している人が多いので、注意をうながしておく。(2012年7月6日)

2013.07.03 Wed » 『失われた者たちの谷』

【前書き】
 以下は2012年6月30日と7月5日に書いた記事を編集したものである。


 代島正樹さんから荷物がとどいた。
 中身は、なんとロバート・E・ハワード作品の私家版ブックレットが4冊。いずれも発行部数が3桁の稀覯本で、そのうち2冊はこれまで書影すら見たことがなかったというしろもの。こんなものを譲ってくださるとは、なんという太っ腹。ひたすら感謝あるのみだ。
 
 そのちのパンフレットの一冊が、Valley of the Lost (Charles Miller, 1975)である。

2012-7-5 (Valley 1)

 ISBNのついていない私家版で、表紙を入れて四六判全24ページの小冊子。限定777部とのことで、710番になっており、イラストを担当したボット・ローダという人のサインがはいっている。

 中身は、〈ナイトランド〉2号に訳載したロバート・E・ハワードの短篇「失われた者たちの谷」だけ(追記参照)。西部劇仕立てのコズミック・ホラーである。
 表紙はそっけないが、タイトル・ページをふくめ、イラストが6枚はいっている。あまり上手な絵ではないが、2枚ほどスキャンしたのでご覧ください。

2012-7-5 (Valley 2)2012-7-5 (Valley 3)

(2012年6月30日+7月5日)

【追記】
 邦訳の掲載時に不幸な事故があった。その件については2012年6月27日の記事でとりあげたので、ぜひお読みください。






2013.07.02 Tue » 『影のなかの歌い手』

 ロバート・E・ハワードは典型的なパルプ作家だが、文学青年気質と無縁だったわけではなく、若いころは純文学系の同人誌に参加したり、自伝的な長編小説を書いたりしている。
 それ以上に重要だったのだが詩作で、少年時代から早すぎる晩年まで一貫して詩を書きつづけた。その作家デビューは、1923年に地元の新聞に詩が載ったときという言い方もできるのだ。

 グレン・ロードによれば、ハワードの詩は遺っているものだけで400を優に超え、しかもハワード没後の1943年に詩の草稿が破棄された証拠があり、その数は不明だという。
 ともあれ、ハワードが真剣に詩作に取り組み、詩人として立とうとしていたのはまちがいない。

 たとえば、すでに商業誌に小説が載るようになっていた1928年にはニューヨークの出版社に詩集を投稿し、没にされている。その原稿をロードが発見し、そのままの形で刊行したのが、Singers in the Shadows (Donald M. Grant, 1970) だ。発行部数わずか549。あっというまに稀覯本になったことは、想像に難くない。

 その本を再刊したのが、今回ご紹介する Singers in the Shadows (Science Fiction Graphics, 1977) だ。

2012-3-18 (Singers 1)

 本文60ページのハードカヴァー。マーカス・ボアズという人が、1ページ大のイラスト6枚と、スポット・イラスト7点を寄せている。

2012-3-18 (Singers 2)

 グレン・ロードの序文つき。限定1500部だそうだ。

 収録されている詩は20篇で、ひとことでいえばゴシック調。とはいえ、当方は詩心がまったくないので評価不能である。

 この本も天使の贈り物。代島正樹さんに改めて感謝。(2012年3月18日)