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SFスキャナー・ダークリー

英米のSFや怪奇幻想文学の紹介。

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2013.01.24 Thu » ワイドスクリーン・バロック

【前書き】
 チャールズ・L・ハーネスがらみの話をつづけたいのだが、そうなるとワイドスクリーン・バロックという概念について触れないわけにはいかない。したがって、2008年12月14日に書いた記事を公開する。


 昨日になるが、ワイドスクリーン・バロックについて語ろうという集まりがあって参加してきた(追記参照)。長年のワイドスクリーン・バロック好きとしては、ちょっと黙っていられなかったのだ。

 というのも、言葉がひとり歩きして、とんでもない拡大解釈がまかり通っているからだ。げんに井上ひさしの『吉里吉里人』をワイドスクリーン・バロックの傑作と持ちあげている例を見たことがある。
 ここまでひどい勘違いでなくても、およそ本来の意味とはかけ離れた用例が氾濫していて、ひとこといいたかったのである。

 この言葉はブライアン・オールディスが1964年に発明した造語。チャールズ・L・ハーネスというマイナーなSF作家の隠れた傑作 The Paradox Men がイギリスではじめて刊行されたとき、その序文でオールディスが同書の作風を説明する言葉として考案し、同系統の作品をあげてカテゴライズを図ったという経緯がある。

 NEL版の序文から、その定義を引用する――
「ワイドスクリーン・バロックでは、空間的な設定には少なくとも全太陽系ぐらいは使われる――そしてアクセサリーとして、時間旅行が使われるのが望ましい――それに、自我の喪失などといった謎に満ちた複雑なプロット、そして身代金としての世界というスケール、可能性と不可能性の遠近法がドラマチックに立体感をもって描きだされねばならない。偉大な希望は恐るべき破滅と結びあわされる。理想をいえば、登場人物の名は簡潔で、寿命もまた短いことが望ましい」(安田均訳を一部改変)

 そしてオールディスがワイドスクリーン・バロックとしてあげたのは、E・E・スミスの諸作(おそらく《レンズマン》シリーズを念頭に置いている)、A・E・ヴァン・ヴォートの《非A》二部作、アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』、ハーネスの同書、パロディの面が強いという留保つきでカート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』であった。
 
 ここで留意したいのは、これらの作品がいずれもスペース・オペラの形式で書かれていることだ。要するにワイドスクリーン・バロックとは、スペース・オペラと総称される母集合のなかの異彩を放つ部分集合なのである。

 この点を押さえておかないと、すべてのワイドスクリーン・バロック論議は空しいものとなる。

 たとえば、ベスターの『虎よ、虎よ!』はワイドスクリーン・バロックの金字塔だが、『分解された男』はワイドスクリーン・バロックではない。
 ところが、『虎よ、虎よ!』→ワイドスクリーン・バロックの傑作→ベスター=ワイドスクリーン・バロック作家→『分解された男』もワイドスクリーン・バロック、という筋道で誤解が生まれ、これが蔓延している。
 同じことはハーネスにもいえて、ワイドスクリーン・バロックとはなんの関係もない凡作『ウルフヘッド』がワイドスクリーン・バロックとされ、ワイドスクリーン・バロックとはこんなものか、という誤解を生んでいる。
 こんなもんじゃないのだ、と叫びたくて何度歯がみしたことか。

 ともかく、大前提としてワイドスクリーン・バロックとはスペース・オペラの亜種だという認識を広めなければならない。話はそれからだ。

 いかん。ワイドスクリーン・バロックと聞くと、つい熱くなってしまう。ハーネスの作品を紹介しようと思っていたのだが、長くなったので項をあらためる。(2008年12月14日)

【追記】
 SFファン交流会12月例会のこと。テーマは「ベイリー追悼『私の愛したベイリーとワイドスクリーン・バロック』」だった。このときワイドスクリーン・バロックを「ワイバロ」と略す参加者がいて、比較的高い年齢層に衝撃をあたえた。
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